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5.0 明治以降の忠臣蔵

 義理や人情といった町人的な価値観も忠義という武士の道徳も含みこんだ「忠臣蔵」は、身分を越えて大変な人気を博した。
 政府によって新たな国家体制が作られる明治以降は、四十七士の忠義の側面に光が当たり、事件としての忠臣蔵に関して解釈を加えた実録ものの出版が盛んになった。また、明治期は、開国によって日本に駐在したオールコック、ミットフォードらイギリス人たちによって日本人の国民性や日本文化の象徴として海外への紹介も進んだ時期でもあり、海外への伝播は「忠臣蔵」というエピソードへの箔付けにも一役買っている。
 一定の型が定着した昭和初期からは、その型を破り、新たな視点からストーリーを描く『赤穂浪士』などの作品も生み出されてくる。新たな四十七士像、新たな吉良像が示される明治期から現代までの代表的な文芸作品を見ていきたい。(川内)

5.1.01 『元禄快挙録』

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 『元禄快挙録』

福本日南(著)
明治42年(1909)初版 啓成社
立命館大学ARC所蔵
 【前後期展示】.

■解説
 「忠臣蔵」の俗説や歌舞伎・浄瑠璃等の芸能によるイメージを排し、確かな史料に基づき史実が纏められている。著者の日南が社長を務めていた九州日報紙上に1908年8月から翌1909年9月まで、295回にわたって連載され、同年12月に単行本として刊行された。討入りの前後の様子だけでなく、浅野・吉良・大石の家系についてや義士個人の略伝や逸話、また討入りまでに死んだ人々や周辺の人々についても述べられている。なかでも裏切った者については厳しい表現がされてもいる。
 当時は日露戦争が終結したころであり、武士道を再評価する気運が高まっていたこと、また日南が国粋主義者であったことから、忠孝礼賛・指導者顕彰の立場によって赤穂浪士事件を解説しているものである。
 以降、しばしば映画の台本の下敷きに使われたり、小学生全集にまで易しく書き直したものが刊行されるなど、『元禄快挙録』はその後の忠臣蔵事件の理解を決定づけたもののといえる。(今中a) 
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5.1.02 桃中軒雲右衛門

【前後期展示】 

 桃中軒雲右衛門は関東の祭文師吉川繁吉の次男として生まれ、幼時より小繁として活動。父没後跡を継いで二代目繁吉となる。その後関西に活動の拠点を移し、名を桃中軒雲右衛門に改める。数年後、福岡を拠点とし再修業を行うが、福本日南らと接触することで「義士伝」を前面に立てるようになり、九州全土で人気を博した。その人気を受け東上して政官財の大物たちが来場する本郷座で『赤穂義士伝』を語り連日大入りとなる。これによって卑しまれてきた浪花節の社会的地位を一挙に引き上げた。
 引く手あまたとなった雲右衛門は日本の各地で公演を行い、1912年7月には日本芸能界の殿堂である歌舞伎座で公演を行い、39歳にして名実ともに日本芸能界の頂点に立った。

 雲右衛門の最大の魅力は息の長いことである。例えば合計十秒ほどの「何が何して何とやら」を普通は「何が何して」息継ぎ「何とやら」と語る。しかし彼はこれを一息で語り、さらに息継ぎをしないまま次の文句へ進む。一息に二~三十秒間も語ることができ「三段流し」といわれた。当時の人気番付によると「桃中軒雲右衛門」の七文字の一部を使って、天光軒、天中軒、雲井、○○右衛門と改名する者も多く、影響の大きさが伺える。

 浪花節とは浪曲ともいい、一人で三味線の伴奏に合わせて物語を歌い語る芸である。明治期に桃中軒雲右衛門がそれまで寄席芸であった浪花節を劇場芸へと高めた。(今中)

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5.1.03 『元禄忠臣蔵』

『 元禄忠臣蔵』

真山青果(著)
昭和9年(1934)初版
初演:昭和9(1934)年2月東京歌舞伎座
【展示なし】
 
■解説
 全9編からなる戯曲。近年まで何度も上演されている。華やかな『仮名手本忠臣蔵』に比べ、史実に基づいており落ち着いた作品である。中でも「伏見撞木町」は『仮名手本忠臣蔵』の一力茶屋大石内蔵助の御家再興の嘆願に斬新な解釈をほどこし、その遊蕩が本心でも世間をあざむく策略でもなく、自らが犯した過ちの重さにじっと耐えるためのものであったとする独自の意味を付与した。なお、1941年に前編、翌1942年に後編として溝口健二監督により映画化されている。この映画も原作と同じく史実を重要視しており、実物大の松の廊下をはじめとする建築や言語・風俗等徹底した時代考証がなされている。(今中)
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5.1.04 『赤穂浪士』

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 『赤穂浪士』
大佛次郎(著)
出版:昭和3年(1928)(初版)
立命館大学図書館所蔵
【前後期展示】.

■解説
 赤穂の浪人たちが忠義のために吉良の首を狙う、という形でのみ描かれてきた物語を、時代の移り変わりとそれに逆流する者たちという大きな枠組みの中で捉え直し、忠臣蔵に新しい視点を取り入れた小説である。
 「赤穂浪士」という呼称は本作品によって普及したが、それまで定着していた呼称である「義士」との相違点は、「義士」が忠義を体現する存在であるのに対し、「浪士」は体制に抗う存在であるという点である。
『赤穂浪士』の「浪士」たちは、武家の世の中から商人や政治家の世の中へという流れに抗い、吉良討入りを通して、その背後にいる柳沢吉保という巨大な政治勢力に挑んでいく。初出は『東京日日新聞』の連載で、関東大震災や世界恐慌といった苦難のなかで政府の支援を受けた大企業ばかりが成長し、貧富の差が膨らんでいくという昭和初期の世相を反映している。(川内a)

5.1.05 四十七人の刺客

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 『四十七人の刺客』

池宮彰一郎(著)
1992年初版(展示品は1995年版)
立命館大学図書館所蔵
【前後期展示】.

■解説
 浅野内匠頭の切腹から吉良邸討入りまでを、大石内蔵助と上杉家家老・色部又四郎との頭脳戦として描く。
この小説では、大石の仇討の意志は城受け渡しのときから明確であった。
吉良が賄賂を好んだという認識さえも仇討を後押しする世論を作るために大石たちが流した噂とし、根っからの悪人ではない吉良像を提示した点が新しい。
身の覚えのない悪い噂や警護により行動が狭められていく中で気力を失う吉良の姿は、ステレオタイプ的な吉良像とは逆のものである。
内蔵助の人物像も従来の描き方とは異なり、討入り前の指示として従来の典型であった「狙うは吉良の首ただ一つ」が本作では吉良邸の者すべて討ち取るように、というものになっている。
 1994年に市川昆監督・高倉健主演によって映画化され、テレビドラマで内匠頭を演じたこともある中井貴一が吉良を守護する内蔵助の宿敵・色部を演じている。(川内)

5.2.01 桜田門外と忠臣蔵?

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『大君の都』

原題: The Capital of the Tycoon: A Narrative of a Three Years' Residence in Japan 
ラザフォード・オールコック(著)
1863年初版
立命館大学図書館所蔵
【前期展示】

 ■解説
  領事として横浜に赴任していたオールコックは、1863年に出版された著書『大君の都』の中で、忠臣蔵について触れている。これが海外の文献で忠臣蔵が扱ったものの初見であると言われる。
 オールコックは、忠臣蔵を「奇妙な物語」と紹介し、その「奇妙な物語」が芝居や出版物を通して大変な人気を博していたことから、この復讐劇が子供たちへ与える教育的影響を心配した。さらには、桜田門外の変を起こす心性も、主君をいじめぬき切腹へと追いやった上役への復讐をたたえる忠臣蔵が培ったのではないか、とその記述を結んでいる。
 流布する作品と国民性を結びつけた文学観は、同時期の日本研究者たちと共通するものである。(川内)

5.2.02 リーズデイル卿の忠臣蔵

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『旧い日本の物語』
原題:TALES OF OLD JAPAN
アルジャーノン・ミッドフォード(著)
1871年初版(展示品は
1910年版
立命館大学図書館所蔵
【前期展示】

■解説 
 のちにリーズデイル卿として知られることになるイギリス人、ミッドフォードによって事件としての忠臣蔵の紹介がなされた。
 この本は非常によく読まれ、英語圏に忠臣蔵を広く紹介した本として現在でも引合いに出されている。
この紹介のユニークな点は、吉良の浅野内匠頭への屈辱的な仕打ちについて、ヨーロッパ式に「靴の紐を結ばせた」と置き換え、討入り前の内蔵助に「非戦闘員への手出しの無いように」という近代的な演説をさせている点である。
 ちりめん本の挿絵を多く担当した絵師・渓斎英泉の木版画が白黒で入っており、忠臣蔵のあらましについて述べたあと、泉岳寺のそばに住んでいたミッドフォードが切腹の事件現場を通った体験で記事は結ばれている。(川内)

5.2.03 翻訳者は、天琴寿

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『忠臣蔵または忠義連盟』
原題: CHIUSHINGURA OR THE LOYAL LEAGUE A JAPANESE ROMANCE
フレデリック・ヴィクター・ディキンズ(訳)
1875年初版(展示品は
1880年版
立命館大学図書館所蔵
【前・後期展示】

 ■解説
 はじめは軍医、のちに弁護士として、合せて二度来日したイギリス人ディキンズによる『仮名手本忠臣蔵』の初めての全訳である。
 表紙は小袖の模様のカタログである雛型本からとっており、ディキンズに漢字をあて「天琴寿」と銘をいれる。挿絵には雲英の入った木版画が多く入っているものの、絵師は不明。この絵については、『宝島』の作者であるスティーヴンソンが彼の小論のなかでコメントしている。彼の評は、討入りのシーンを効果的に描いていないものの視覚に頼りすぎる西洋美術とは異なっていてむしろ良い、という皮肉とも称賛ともとれるものであった。

『仮名手本忠臣蔵』と同様に11段の構成を保ったまま翻訳されており、実際に『仮名手本忠臣蔵』の舞台をみたディキンズらしく、序文では、浄瑠璃がどのように歌われるのかについて詳しく解説を施している。(川内)

5.2.04 まるで和本!?の豪華本

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 『忠臣蔵または赤穂の忠臣』
原題:Chushingura or the loyal retainers of Akao
井上十吉(訳)
1894年初版(展示品は1937年版)
立命館大学図書館所蔵
【前・後期展示】

 ■解説
 初版が1894年に出版されたのちに1910年に大幅な増補を施し、さらには1937年には美麗な和本仕立てで再版された。1937年版は、和本のように帙に入り、表紙は雁子模様の縮緬に金で題名が印字されている。
 翻訳者である井上十吉は明治を代表する英文学者で、ヘボン式から脱却した和英辞典を執筆した人物として知られている。
 序文に忠臣蔵に興味をもつ外国人に向けた本であると書かれているとおり、侍、江戸時代、歌舞伎について、約40ページにおよぶ詳しい説明がつけられている。
 『忠臣蔵』の主題を武士道であると述べ、武士道とは、名誉にかかることについて一度手をつけたら、命や財産を犠牲にしてもやりきることであると説く。
 訳文は、英語で『仮名手本忠臣蔵』を上演することも視野に入れ、原文に非常に忠実である。(川内)

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