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5.1.02 桃中軒雲右衛門
【前後期展示】
桃中軒雲右衛門は関東の祭文師吉川繁吉の次男として生まれ、幼時より小繁として活動。父没後跡を継いで二代目繁吉となる。その後関西に活動の拠点を移し、名を桃中軒雲右衛門に改める。数年後、福岡を拠点とし再修業を行うが、福本日南らと接触することで「義士伝」を前面に立てるようになり、九州全土で人気を博した。その人気を受け東上して政官財の大物たちが来場する本郷座で『赤穂義士伝』を語り連日大入りとなる。これによって卑しまれてきた浪花節の社会的地位を一挙に引き上げた。
引く手あまたとなった雲右衛門は日本の各地で公演を行い、1912年7月には日本芸能界の殿堂である歌舞伎座で公演を行い、39歳にして名実ともに日本芸能界の頂点に立った。
雲右衛門の最大の魅力は息の長いことである。例えば合計十秒ほどの「何が何して何とやら」を普通は「何が何して」息継ぎ「何とやら」と語る。しかし彼はこれを一息で語り、さらに息継ぎをしないまま次の文句へ進む。一息に二~三十秒間も語ることができ「三段流し」といわれた。当時の人気番付によると「桃中軒雲右衛門」の七文字の一部を使って、天光軒、天中軒、雲井、○○右衛門と改名する者も多く、影響の大きさが伺える。
浪花節とは浪曲ともいい、一人で三味線の伴奏に合わせて物語を歌い語る芸である。明治期に桃中軒雲右衛門がそれまで寄席芸であった浪花節を劇場芸へと高めた。(今中)
【参考資料】
『浪花節桃中軒雲右衛門』 コロムビアミュージックエンタテインメント (2006)
早稲田大学坪内博士記念演劇博物館編 『演劇百科大事典』 第4巻 (1961)