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0.0 赤穂事件と"忠臣蔵"

 時は江戸時代、五代将軍徳川綱吉の御世、大平を謳歌する時代にとんでもない事件が起こった。元禄14年(1701)3月14日、江戸城殿中松之大廊下で赤穂藩主・浅野内匠頭が高家肝煎・吉良上野介に刃傷に及んだことに端を発する赤穂事件。この一件で加害者とされた浅野は即日切腹となり、被害者とされた吉良はお咎めなしとなった。
 赤穂家中は、その結果を不服とするが、家老・大石内蔵助は赤穂城を明け渡す。復讐を急ぐ同志を懐柔しつつ浅野の一周忌まで待ち、内匠頭の弟大学によるお家再興の望み絶えたと知るや復讐を決意し、赤穂浪人47名、いわゆる「赤穂四十七士」は、江戸へと下る。
 紆余曲折の末、元禄15年(1702)12月14日未明に本所・吉良邸への討入りに及び、見事その首をあげ、その後の浪士たちの切腹までの一連の事件を総称して、「元禄赤穂事件」と呼んでいる。

 この事件を題材に早速、演劇や小説が作られることになるが、こうした現実の事件の劇化や出版は、当時御法度とされており、とりわけ話題性の高かったこの事件については、しばらくはマスメディアには載ることがなかった。
 浅野大学が許されたことを受け、宝永7年(1710)頃から、ようやくこれに材をとった作品が生まれるようになった。そして、さまざまな義士劇を経て、義士の数と一致する47年後の寛延1年(1748)に、人形浄瑠璃芝居で「仮名手本忠臣蔵」が上演された。これが決定版となって歌舞伎や講談、小説などに拡大し、いつしか事件そのものも「忠臣蔵」事件と呼ばれるようになった。
 われわれ日本人は、この『忠臣蔵』の中に時代時代において様々な意味を付加えて「共同幻想」を積み重ね、日本人の行動様式や心といった民族の文化を見てきたのである。(a)

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