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4.0 さまざま敵討

  赤穂浪人の討入りは、敵討事件として日本で最もよく知られており、まさに決定版の如き様相を示しているが、それ以前にもさまざまな敵討があった。たとえば荒木又右衛門の伊賀越敵討や曽我兄弟が工藤祐経を討った曽我敵討は、忠臣蔵と併せて日本の三大敵討に数えられる。いずれも、講談や演劇で人気をとり、敵討を成就した当事者は庶民にとっての英雄となっていった。
 以降も、たびたび敵討が行なわれ、明治6年(1873)に敵討ちが禁止されるまで、浄瑠璃や歌舞伎として上演され話題を呼んで知れ渡った。不思議なことに、現代においても多くが語り継がれており、文芸の世界に復活してくるのである。このコーナーでは、そのなかでも有名な作品や当時舞台化されて話題を集めた作品などを紹介していく。(a)

4.0.1 カモフラージュの敵討ち

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「新版 信田会稽夜討」

無款 大々判/丹絵(横) 
宝永8年(1711)頃
立命館大学ARC所蔵 arcSP02-0051
【前後期展示】.

■解説
 忠臣蔵事件が起こった前後、演劇や文芸の世界では、こぞってこの事件を取り上げたが、江戸では、討入り直後の芝居が差し止められたこともあり、メディアが取り上げることに慎重だった。この作品は、上方での動向をみつつ、「信田」という集団敵討の物語の役者絵に「討入事件」を仮託している。江戸時代では、政治的な事件を直接表現できなかったため、他の世界に見立てて表現することが多かった。つまり忠臣蔵事件のカモフラージュするため、別の信田の敵討に仮託して描かれたのである。
 なお、本作は、赤穂浪人たちの討入り事件を浮世絵で描いた最古の作品である。(Y.S.a)

4.1.0 曽我の敵討

 1193年に関東で起きた敵討である。日本の敵討では、長く人口に膾炙したもので、物語は、軍記物語風の伝記物語である「曽我物語」として伝わっている。河津三郎の子、十郎と五郎が、幼時に殺された父の敵工藤祐経を打つため、艱難辛苦の末、冨士の巻狩の時の夜営に夜討をかけ、祐経を討つというものである。
 この曽我物語は、能や浄瑠璃、歌舞伎の題材となり、広く知られるようになった。なかでも、歌舞伎では、毎年のようにこの物語が「○○○曽我」というタイトルで脚色されたが、元禄期以降、江戸の三座では、初春狂言として毎年曽我物語を正月に出し、当たれば、3月、5月と続演して、5月28日の討入りまで上演し続けるというのが慣例となって、一題材の枠組みを超えた世界を形作ったのである。(a)

4.1.1 幼少期の曽我兄弟

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「曽我中村閑居之図」


延一 大判/錦絵 武者絵、歴史画
出版:明治30年(1897)12月 東京
立命館大学ARC所蔵 arcUP5066-5068
【前期展示】.

■解説
 曽我の敵討を描く作品は、夜討ち、矢の根、対面、草摺引などを描くものが多い中、本作は兄弟の幼少時代を、母とともに描く作品で、江戸時代にはあまり描かれない図柄である。曽我の兄弟の父親が殺されたのは兄弟がまだ幼いころであったが、父の亡き後、母親は曽我祐信に嫁し兄弟も引き取られる。まだ7,8歳であるというのに父の仇である工藤を討とうと鍛錬している様子が描かれている。
 ある秋の日、雲井を渡る五羽の雁を見て、兄の祐成は、弟の時致に、「あの雁の二羽は父母、三羽は三人の兄弟である。しかし、自分たち兄弟には実の父親がいない。本当の父は河津であり、敵は工藤祐成である」と教え、それ以来、両人は敵討を決心する。兄弟は、母の見守る中、成長しながら心を合わせて武力を磨いていったのである。(Y,Sa)

4.1.2 巻狩

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「曽我兄弟敵討」

国安 大判/錦絵 武者絵
出版:文政頃 江戸
立命館大学ARC所蔵 arcUP5293-5295
【前後期展示】.

■解説
 この作品は、源頼朝が富士で催した大規模な巻狩の場面で、中央奥には、富士が見える。中心となるのは、巨大な猪を仕留める仁田四郎であり、それを眺める頼朝と御所の五郎丸である。通常この場面が単独で描かれるのであるが、本作では、工藤祐経を刀を抜いて追う、五郎・十郎の姿が描かれている。しかし、ここでは、敵討は行われず、兄弟と祐経の対面が果たされて、再開を約束することになる。
 その後、冨士の狩場で討入が決行されるが、工藤を討ったあと、兄十郎は、討死し、弟の五郎は、さらに頼朝を狙って深入りするが女装した御所五郎丸に油断して捕えられ、尋問されたのちに斬首されるのである。(Y,Sa)

4.1.3 曽我の対面

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「摂馴染曽我」「工藤一臈祐経」「曽我十郎祐成」「同五郎時致」

豊国〈3〉 大判/錦絵 役者絵
出版:嘉永2年(1849)頃 見立
立命館大学ARC所蔵 arcUP2867
【後期展示】.

■解説
 「曽我の対面」と呼ばれる場面の図を描く。江戸時代には、江戸歌舞伎においては、初春狂言としてほぼ毎年曽我狂言を出し、その中で必ず対面の場面が仕組まれていた。そのため、趣向を凝らして様々な書き換えがなされてきた。しかし、基本は、曽我兄弟と、その仇である工藤祐経とが初めて対面する場面である。明治以降は、対面の場だけが単独し、定型の作品として上演されるようになった。
 小林朝比奈の手引きにより、兄弟はついに工藤との対面を果たす。弟の五郎は工藤に今にも切りかかろうとするが、兄の十郎と朝比奈がそれを抑える。結局、父の仇を前にしながら、曽我兄弟はこの場面では工藤を討つことはなかった。工藤が奉行の役目が終われば討たれようと狩場の通行切手と太刀を渡し、双方再開を期して別れることになる。(Y,Sa)

4.2.0 伊賀越の敵討

 伊賀越の敵討ちは1634年に起きた敵討ちのことである。岡山藩士の渡辺数馬が義兄の荒木又右衛門とともに弟の源太夫の敵である河合又五郎を討ち取った一連の出来事である。安永5年(1776)8月に、江戸で人形浄瑠璃「志賀の敵討」の中で脚色されたのが早く、同じ年、12月には大坂で「伊賀越乗掛合羽」という歌舞伎脚本になり、その後、浄瑠璃「伊賀越道中双六」に脚色されるようになり、よく知られる敵討ちの一つとなった。

 物語の内容は単純明快であり、人気の演目の一つであった。歌舞伎などで演じられる際は、渡辺数馬は和田静馬あるいは志津馬、河合股五郎は沢井股五郎あるいは又五郎に、荒木又右衛門は唐木政右衛門にと名前が変更されている。(Y,S)

4.2.1 伊賀越乗掛合羽

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「伊賀越乗掛合羽仇討図」

国虎 大判/錦絵 物語絵
出版:文政頃 江戸
立命館大学ARC所蔵 arcUP5310-5312
【前期展示】.

■解説
 歌舞伎の「伊賀越乗掛合羽」の敵討ちの場面が描かれている。静馬が政右衛門の助太刀を得て、伊賀上野にて又五郎を討ち果たすシーンである。「伊賀越乗掛合羽」によって御家騒動と敵討とを結合させた新しい作品が誕生した。また、この作品の影響力は大きく、本題のまま浄瑠璃化され、「伊賀越道中双六」の母体にもなっている。「仮名手本忠臣蔵」とのかかわりも深く、演出を真似ている場面がいくつか見られる。(a)

4.2.2 重兵衛

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「接合駅路楳」
「ごふく屋重兵衛 嵐吉三郎」

無款 細判/合羽摺 役者絵
上演:文化11年(1814)頃
立命館大学ARC所蔵 arcUP0644
【後期展示】.

■解説
 この絵には呉服屋重兵衛が描かれている。「伊賀越道中双六」という「伊賀越の敵討ち」の外伝作品において創作された人物である。
 重兵衛は又五郎の逃亡を手伝った人物である。東海道沼津の宿にて、二歳の時に別れた自分の実父の平作と妹のお米に出会う。お米は又五郎を敵と狙う、和田志津馬の妻であった。重兵衛はお米に、志津馬が必要としている妙薬を渡したり、平作に又五郎の「落ち行く先は九州相良」と告げたりするなど、又五郎を主人としながら間接的に志津馬の敵討ちを手助けすることになる。(Y,Sa)

4.2.3 沢井又五郎

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「伊賀越乗掛合羽」
「沢井又五郎 市川鰕十郎」

無款 細判/合羽摺 役者絵
上演:文化13年(1816)頃 大坂・京都
立命館大学ARC所蔵 arcUP1617
【前期展示】.

■解説
 伊賀越物の敵役である沢井又五郎を描いた作品である。又五郎は正宗の名刀の恨みから、恩師である静馬の父渡辺である靭負を殺し、正宗の刀を奪う。又五郎は様々な手段で身を隠し、何とかして逃げおおせようとする。
 「伊賀越乗掛合羽」は、前半を本展でも出品する「殺報転輪記」などの実録から、後半を「仮名手本忠臣蔵」の趣向を取入れて脚色している。この図は、俗医者の左内を殺し、人相の変わる薬を奪っている場面であるが、「仮名手本忠臣蔵」五段目の定九郎の場面を取入れていることがわかるだろう。(a)

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