『忠臣蔵』を題材にした浮世絵は、「討入り」から描かれはじめ、19世紀に入ると物語の全段を描くシリーズから抜き出されて「討入り」だけが独立して描かれた作品が多く見られるようになり、独自の展開をしていったことは、第1回デジタル展覧会「討入り図の諸相」でご紹介しました。
そのような展開の中で、文政(1818~30)後期に初代歌川国貞が描いた「仮名手本忠臣蔵十一段目夜討人数ノ内」シリーズは、黄色の背景に討入り姿の義士を1人あるいは2人ずつ描いたもので、その後多数制作される義士銘々を描く武者絵シリーズの嚆矢となりました。そして、義士図の様式を確立したのが、国貞のシリーズ刊行からおよそ20年後の弘化4年(1847)に刊行されて空前の大ヒットとなった歌川国芳の「誠忠義士伝」シリーズです。義士たちが戦う様をいきいきと描き、上部に略伝を添える形は、その後の義士銘々図の基本様式となり、武者絵を得意とする浮世絵師たちが同様の様式で、あるいはさらに趣向をこらして描きました。
江戸時代には、幕府にはばかって、芝居同様実名で義士を浮世絵に描くことはほとんどありませんでした。明治時代になると、実名、すなわち大石内蔵助で描かれるようになります。明治35~36年(1902~03)に刊行された尾形月耕の「義士四十七図」が浮世絵としての最後の義士銘々図のシリーズとなりました。
番外として、討入り姿ではない由良之助・内蔵助を描いた作品もご紹介します。
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