『忠臣蔵』は「討入り」から描かれはじめた。
寛延元年(1748)の『仮名手本忠臣蔵』成立以前に、赤穂事件を念頭に描かれた絵画は、現在のところ2点しか確認されていません。
1点は、鳥居派様式の「新板 信田会稽夜討」(立命館大学アート・リサーチセンター所蔵、arcSP02-0051)です。「信田」の敵討ちに仮託して描かれた役者見立絵で、宝永8年(1711)ごろのものと推定されています。門を打ち破る様子や邸内での戦闘、炭小屋の場面も描かれ、赤穂事件の討入りを想起させる図様となっています。
もう1点は絵馬で、正徳5年(1715)に京都府宮津市の智恩寺に奉納された「義士討入図」で、まさしく赤穂事件の討入りが描かれています。
点数は少なく、絵画化されるほどの評判を呼ぶ義士劇はまだ成立していませんでしたが、これらのように赤穂事件といえば「討入り」という認識がすでになされ、描かれはじめたのです。