紗綾(さや)とは、表面がなめらかで光沢のある絹織物の一種を指します。多くは白生地で後から加工されて用いられてきました。そして、紗綾に図1のような卍(まんじ)を斜めにかさねた「万字繋ぎ」(紗綾形)が頻繁に織り出されたことから、織物の呼び名が紗綾形という文様の名称になったと言われています。現在も地紋としてきものへ頻繁に使われていますし、どこかで一度は目にしている文様でしょう。
紗綾形という名称は江戸において使われていたようで、江戸時代の流行・風俗をまとめた『守貞謾稿』(天保8年[1837]起稿)では「万字繋(まんじつなぎ)」として紹介されていて「万字つなぎ、京坂の俗は綸子形と云ひ、江戸には紗綾形と云ふ。綸子および紗綾ともに専らこの紋を織る。」とあります。江戸と京坂で呼び方は異なっていたようですが、いずれも織物に頻繁に使われた文様がそのまま呼称になっていたようです。
さて、織物の地紋として定着している紗綾形ですが、染色用の型紙にも数多く見受けられます。もともと織物の地紋から広まったこともあり、型紙に使われる際もやはり地紋として使用される傾向にあったように見受けられます。しかし、同じ紗綾形であっても、織物と布地を染める型紙とでは、文様の表現方法が異なっています。キョーテックコレクション約18,000枚の中には紗綾形を現在約80枚確認していますので、その中からいくつか紹介したいと思います。
図2の紗綾形は、直線を花弁により構成しています。「道具彫」という刃先が丸や三角、桜の花弁などさまざまな形をした彫刻刀により作られた型紙です。紗綾形は、斜めの直線が連なるので、少々堅い印象を受けますが、その直線を花弁の形にすると、とてもかわいらしい文様に見えてきます。
図3の紗綾形は、鹿子絞りを意識して作られたのでしょうか。直線を構成する一つ一つの粒が、絞りの文様を直線に並べたように見えます。しかし、粒の周辺を全て彫り抜いてしまうと、文様が型紙に残りません。そこで、粒の周辺と型紙とを細く繋ぎ、文様が落ちてしまわないように残しています。紗綾形を鹿子絞り風にデザインする発想力と型彫師の卓越した技術とが融合して完成された型紙といえるでしょう。
最後に紹介する図4と図5は、一見すると紗綾形に見えない型紙です。実は、二枚の型紙を使って紗綾形に染色する「風通染」に使われた型紙です。『染の型紙』によると風通染とは京都における呼び名だそうで、他地域では「京追掛」と呼ぶそうです。一つの文様を二枚の型紙へ均等に分けているので、一見しただけでは紗綾形とはわかりません。このような風通染は、紗綾形だけではなく、様々な文様を染めるために使用されました。図4と5は、道具彫によるもので、幅の狭い棒の形をした彫刻刀が使用されたと思われます。二枚の型紙がぴたりと合わなくては美しい文様を染めることもできないので、型彫師と布を染める職人の高い技術が求められました。
「風通染」は明治35年頃~大正初年頃(1902~1912)まで流行したそうですが、非常に手間がかかるため、廃れてしまい現在はおこなわれていません。一度途絶えてしまった技法ではありますが、型紙が当時の研ぎ澄まされた技術を今に伝えてくれています。
参考文献
『染の型紙』京都国立博物館 1968年
喜田川守貞『近世風俗志(守貞謾稿)』岩波文庫 1999年(天保8年起稿[1837])