5月5日は、古来より「端午の節句」として男児の健やかな成長を願う行事がおこなわれてきました。現在のように「こどもの日」として祝日に制定されたのは、1948年(昭和23)のことだそうです。
端午の節句では、邪気を払うために菖蒲や蓬を軒にさし、粽や柏餅を食べます。また、男児のいる家庭では鯉のぼりを立て、甲冑や武者人形を飾り、こどもの健やかな成長や将来を祈ります。こうした行事が広く行われるようになったのは、江戸時代以降といわれています。そこで、武具や馬具など端午の節句にふさわしいデザインの型紙をいくつか紹介したいと思います。
図1は、武具や馬具が配された型紙です。型紙上部から「鞭」、合図や命令の伝達に用いられ、大将の持ち物とされた「采配」、「弓」、「兜」、馬の口に噛ませる「轡」(くつわ)や乗り手の足を支える「鐙」(あぶみ)などが挙げられます。武具や馬具を取り合わせた男児のきものが現在まで残っているので、この型紙も男児向けと考えられます。男児の健やかな成長や将来の成功を、武具や馬具のデザインに托していたのでしょう。
図2は、図1でも紹介した「轡」が配された型紙です。轡は本来、馬の口にはませて手綱をつけて馬を扱うための金属製の馬具ですが、デザインとして形が好まれたのか、馬具の中でも頻繁に登場します。図2もいろんな方向に轡が配され、デザインとして楽しまれていたように感じられる型紙です。
一見すると一つ一つの轡がバラバラに配されているように見えますが、拡大してみるとすべての轡が繋がって彫刻されています。轡同士が繋がっていなくては、布地を染める際に型紙として機能しないためで、こうした表現方法は型紙ならではといえるでしょう。
図3は兜と梅が配された型紙です。対照的なモチーフですが、なぜこのような組み合わせなのかと考えてみると、「箙の梅」(えびらのうめ)という画題が想起されます。
元暦元年(1184)年二月、摂津国生田の森の源平合戦において、梶原源太景季は梅花の枝を箙(えびら 矢を入れて背負う武具のこと)に挿し、兜を落とされながらも奮戦した逸話が残っています。原拠と見られる話は『源平盛衰記』に見られますが、謡曲『箙』にも取りこまれ、浄瑠理や歌舞伎など劇化もなされています。また、梶原源太景季は、源平合戦の様子を描いた武者絵や歌舞伎の登場人物として役者絵にも描かれていて、人々によく知られた登場人物でした。
図3の型紙は箙ではなく、兜と梅が彫刻されていて「箙の梅」を表現しているかどうか疑問が残ります。しかし、嘉永五年(1852)に出版された「」(国立国会図書館蔵)の衣裳は、兜と梅があしらわれています。従来、「箙の梅」は箙と梅の組み合わせであったものが、繰り返し芸能や絵画の中で表現されていくことにより、兜と梅の組み合わせが創出された可能性もあるでしょう。一枚の役者絵を典拠ということはできませんが、梶原源太の逸話を象徴するものが変化し、そこから図3の型紙が生まれたとも考えられるのではないでしょうか。
武具や馬具といった勇壮なモチーフが型紙にはしばしば登場します。こうしたモチーフのみを見ていると、相手を打ち倒したり、強さを誇示したりするような印象を受けてしまいますが、背景を辿ってみると、武将にまつわる逸話が垣間見えてきます。
参考文献
『原色浮世絵大百科事典 第4巻 画題 説話・伝説・戯曲』 大修館書店 1981年
『浮世絵大武者絵展』図録 町田市立国際版画美術館 2003年
国立国会図書館デジタルコレクション