市松文様とは、異なる二色の正方形を互い違いに配した幾何学文様で(図1)、世界各地でデザインとして古くから用いられてきました。市松文様の名が定着する以前は、「石畳」と呼ばれていたようです。
日本で「市松文様」の名が定着したのは、江戸時代の歌舞伎役者、初代佐野川市松が舞台衣裳として着用したからだといわれています。寛保元年(1741)に佐野川市松が演じた粂之介という役が大当りしたことがきっかけとなり、特に女性へ市松の着用した文様が流行し、役者の名前がそのまま文様の名前として広まりました。現在もインテリアや雑貨、東福寺の庭(京都市)までさまざまな場所で目にすることができます。
市松文様は、二色の異なる正方形を互い違いにした非常にシンプルなデザインですが、それゆえ型紙の中ではさまざまなアレンジが加えられています。キョーテックコレクションを確認してみると、約18,000枚の内、少し変わった市松文様も含めると147枚ほど確認することができます。
例えば図2は、互い違いの正方形が藤の花と入れ子の市松文様になっています。入れ子になっている市松文様は、少し崩れたように彫刻されていますが、一つとして同じ形がありません。細やかですが、型彫師の工夫やデザインに対するこだわりが感じられます。なんだかパズルのようにも見える市松文様です。
次の図3は、正方形ではなく、長方形を互い違いに配した市松文様です。しかし、長方形の内部は麻の葉文様になっていて、二種類の文様を組み合わせた構成になっています。また、異なる二色の長方形を表現するために、この型紙では麻の葉文様を彫刻しながら濃淡をつけています。麻の葉文様の輪郭のみを錐彫と呼ばれる半円の彫刻刀で彫り抜く方法と、麻の葉文様の輪郭のみを残す方法を採用しているのです。輪郭を残した彫刻は、少し紙を彫り残しておくことで、型紙全体を見たときに少し掠れたような風合いが表現できます。彫刻により、市松文様の濃淡を少し和らげたデザインと言えるでしょう。
図3の型紙は、彫刻以外にも注目すべき点があります。型紙の左下をよく見ると、枠と文字が透けて見えます。これは、一度使用した紙を型紙へ作り替えたという証拠です(図3拡大)。このような反故紙を使って作られた型紙はしばしば見かけることがあり、型紙に対する需要が多いことを物語っています。また、型紙の上から墨で「子三十三」と書かれていることもわかります。これは、明治33年(1900)が子年であったことから、年と干支を書いたものだと思われます。型紙には、制作あるいは購入年を記載しているものも見受けられるので、この型紙は明治33年頃、制作か購入された型紙なのかもしれません。
最後に紹介する図4は、市松文様を背景に使用したデザインです。幾何学的でシンプルな文様は、デザインの中で背景のように使われることもあり、図4は楓と流水が前面に出ています。流水のしぶきは大きく弧を描いてデフォルメされていて、モダンな印象を受けるデザインとなっています。
市松文様は、シンプルな「かたち」であることを活かして、さまざまにアレンジされてきました。市松文様を構成する異なる二色の正方形は、対照的な色やはっきりとした濃淡であることも多いのですが、型紙の彫刻技術によってコントラストをはっきりさせることも、ぼかすことも自由自在に表現され、人々に愛好されてきたのです。
参考文献
『染の型紙』京都国立博物館 1968年
『歌舞伎事典』平凡社 1983年
喜田川守貞『近世風俗志(守貞謾稿)』岩波文庫 1999年(天保8年起稿[1837])