2.1.01 大石内蔵助

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「大星蔵之助藤原良雄」 

豊国〈3〉 掛物絵/錦絵 武者絵
出版:嘉永1年(1848) 江戸
立命館ARC所蔵 arcUP4526-4527
後期展示.

■解説
 赤穂事件の立役者として有名な大石内蔵助像である。
赤穂義士の頭領であった内蔵助は兵学を山鹿素行に、漢学を伊藤仁斎に学んだとされる。上部には、内蔵助の伝が誌されるが、鎌倉殿中、敵師直などとあるように、「仮名手本忠臣蔵」での虚構と史実が混じり合って誌されている。
 この「仮名手本忠臣蔵」には、演劇というジャンルを超えて、小説・講談・絵画にも数多くの書き替え物と称すべき作品が派生した。その内、幕末期より盛んになったのが実録物で、志士の人物に焦点を当てた外伝物である。明治期になると実名で使用が許され、外伝もより推奨されていく。
 なお、本作品は掛け物絵といい、表装して掛け物にできるよう上下をつなぎ合わせる。そのため、通常の大判の料紙よりも若干幅が狭いのである。(A.Ka) 

 

 ■翻刻
「鎮守府将軍秀郷の後也 父の諱は良昭母は池田氏 祖父良勝 始て朝廼某に仕て子孫続いて長臣たり 良雄は禄千五百石を受 尢誠忠にして星載に懈ず 仁智勇謀人に勝れ石束氏を娶て二男一女を産長氏を力弥良兼と名づく 時に元禄十四年三月主人鎌倉殿中に於て某の矛盾なるを憤りて刃傷に及ふ 加古川某側に在て抱支られ本望遂ず さあれは殿中時機を憚らぬ科に依て賜死畢ぬ 良雄本国に在て 以為君の讎は共に天を戴べからずと三百余人を集て枕城に殉死せんなとゝ諮見る 是に於て多く約を変じ退者あり 纔に同士の者五六十人血判を以て讐討を約し城を去て各離散す 良雄山科に住 家に弓矢を飾ず身に帯剣せず 遊女に戯れ人の謗言を背見ず 同十五年大星父子及び一味の者秘に鎌倉に下りて 様々に形を替 讐家の有様を窺ひ 十二月十四日の夜に茶会有事を聞 俄に四十六人の輩一様の姿に出立 讐家に討入 終に敵師直の首を取 主君の菩提所へ退き墓に備へて共に本望達せしを悦びて 翌年同十六年二月四日 四十六人自殺をなせり 惜べし忠なる哉義士なる哉     万亭応賀誌」 (a)