E2.2.07.01 誠忠義士伝 一 大星由良之助良雄

絵師:歌川国芳
出版:弘化4年(1847
判型:大判錦絵51枚揃のうち
所蔵:赤穂市立歴史博物館
作品番号:AkoRH-R0340-01

 「誠忠義士伝」は、討入り姿の義士一人ひとりを描く代表的なシリーズ。四十七義士に、第38図と第39図を「誠忠義士伝起源」として、それぞれ「高野武蔵守師直」(E2.2.7.1)「塩谷判官高貞」(E2.2.7.8)を描き、第47図の「早野勘平常世」(AkoRH-R0340-47)、「大尾」の「鹿松諫六家僕塵三郎」(AkoRH-R0340-51)の4図を加えて全51枚の揃物である。ただし、シリーズ刊行当初は50枚揃を意図していたらしいことは、義士図としては「五十 芳田忠左衛門兼亮」(E2.2.7.10)をもって完結していることからも十分察せられるが、版元海老屋林之助が本シリーズの続編として、同じ国芳・一筆庵(渓斎英泉)コンビで刊行していくことになる義士外伝シリーズ「誠忠義心伝」(E2.2.8)の予告編として「鹿松諫六家僕塵三郎」を「大尾」に加えたと思われる。それは、「鹿松諫六家僕塵三郎」が義士ではなく、「誠忠義心伝」シリーズに描かれる義士をとりまく人々の範疇に属すること、「五十 芳田忠左衛門兼亮」図中に「冀(こいねがわ)くハ続て発市の外伝も高評を給ハヾ幸(さいわい)甚(はなはだ)しと云々」と記載されていることからも察せられる。

 『忠臣蔵』の浮世絵は、19世紀に入ると「十一段目」=討入りが拡張されて、物語を離れて独自の展開を見せるようになる。その最も顕著な例は、討入り時の義士を取り上げた武者絵シリーズの登場である。討入り姿の義士を1人あるいは2人ずつ描くシリーズの最も早い作例と目されるのは、初代歌川国貞の「仮名手本忠臣蔵十一段目夜討人数ノ内」シリーズ(AkoRH-R0202R0204)で、文政9~11年(182628)ごろの刊行と推定されている。

 それから約20年後の弘化4年(1847)に刊行されたのが「誠忠義士伝」シリーズである。「五十 芳田忠左衛門兼亮」の図中、国芳落款の右に「義士肖像七月初旬筆を下(おろし)、十二月十四日画畢(えがきおわる)」、左方に「此誠忠義士伝未(弘化4年)の七月出板せしに、時好に称(かな)ひ世評高く、同十二月十四日迄に四十七士悉く全備す」と記載されていることから、弘化4年の7月から12月にかけて順次刊行されたものであることがわかる。このシリーズは、先述の国貞作の静的な描写とは異なり、各図義士の戦う様を生動感いっぱいに描き、上部に略伝を添えるというスタイルであった。これが空前の大ヒットとなり、その後の義士図の基本的様式が確立されることになった。幕末江戸の政治・事件・災害・娯楽・出版等ありとあらゆる情報を記録した『藤岡屋日記』によると、「都合五十一枚続、去未年七月十四日より売出し、当申ノ三月迄配り候処、大評判にて凡八千枚通り摺込也」とあり、普通錦絵の初摺は200枚程度とされるので、8000セット摺ったというのはいかに驚異的な売れ行きであったかがわかる。

 「誠忠義士伝」シリーズの第1図はやはり「大星由良之助良雄」である。雁木模様の羽織を着用し、額には鉢巻を巻いている。床几に腰掛け、右肩に槍を立てかけ、陣太鼓を打ち鳴らす姿である。槍の千段巻きには「早野勘平討死」と書いた札をぶら下げている。由良之助は非業の死を遂げた勘平になりかわって討入りに臨んでいるのである。ちなみに、第47図の「早野勘平常世」は、霊となって討入りに参加しているということで、下半身が透けているように薄く摺られている。