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2009年3月30日

資料調査

論文執筆のため27日(金)関西大学、30日(月)龍谷大学へ調査。『サンデー毎日』『文芸』閲覧、「郷土文学」についての資料収集。(楠井)

2009年3月18日

海外出張

科研費の調査のため18日~20日まで韓国出張(木村・楠井)。

2009年3月14日

シンポジウム「海外における日本文学の時空間」

下記の内容でシンポジウムを開催しました。
討議の充実した内容となりました。本会の記録は、2009年度に報告書として作成予定です。
 
【日程】 2009年3月14日(土)13:00-17:00
【場所】 立命館大学アート・リサーチセンター 多目的ルーム
 
【テーマ】 海外における日本文学の時空間(クロノトポス)―比較文化研究とデジタル・ヒューマニティーズ―

【パネリスト】
真銅 正宏 (同志社大学)
西原 大輔 (広島大学)
須藤 直人 (立命館大学)

【司会・コメンテーター】
木村 一信 (立命館大学)

【主催】 文部科学省グローバルCOEプログラム「日本文化デジタル・ヒューマニティーズ拠点」(立命館大学)
【企画】 日本文化研究班・木村研究室

*終了後、18:00より「とさや」にて懇親会。

チラシ[PDF]

開催趣旨は、「続き」をご覧ください。

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2009年3月14日

シンポジウム内容①

○イタリア「観光」の性格とホテル
  ――イタリア旅行関係記事のPDFファイル化を通じて――
真銅正宏(同志社大学)
 
 日本の近代において、視察や留学、および旅行のためにヨーロッパに渡った日本人たちは多い。しかしそのほとんどが、ロンドンやパリ、ベルリンなど、一国およびヨーロッパ全体を代表する都市に、明確な目的意識をもって訪れているのに対し、イタリアについては、やや違う訪れ方を見せる。端的にいえば所謂「観光」という態度が目立つのである。この、やや特異な西洋訪問記としてのイタリア旅行記を対象に、日本人たちがおそらく初めて体験したであろう「観光」という営為について、考察したい。
 イタリアは、ローマという古都でありかつキリスト教の一つの中心地を持つ一方で、かつての都市国家の面影を受け継ぎ、ミラノやフィレンツェ、ヴェネチア、ナポリなど、それぞれ個性に富み、旅行者に多彩な印象をもたらす都市をいくつも持っている。日本人旅行者たちは、ローマにだけ向かうのではなく、これら諸都市を常に歴訪する。これは、パリやベルリン、ロンドンへの訪れ方とは対照的であろう。本発表においては、特に、イタリアの代表的な観光地の記事と、当時の写真などの資料とをつきあわせる作業と、日本人旅行者が宿泊したホテルの描写に焦点を当てることにより、その歴訪というスタイルに特徴的なイタリア「観光」の性格を明らかにすることを目指す。
 この考察の基礎作業として、西洋渡航の始まった幕末期から第二次世界大戦が終わった一九四五年までの間に刊行された書籍および雑誌のうち、日本人旅行者のイタリア旅行関係の記事を集成し、これをデータベース化する作業を、現在、進めている。さらに、これら記事をPDF(Portable Document Format)ファイル化することにより、検索の利便性および記事間および他の媒体による資料との連結をも図ることも試みている。これらの基礎作業についても中間報告したい。

2009年3月14日

シンポジウム内容②

○日本の文学・美術に描かれたシンガポール
西原大輔(広島大学)
 
 幕末の1862(文久2)年、遣欧使節団の一員としてシンガポールに寄港した福沢諭吉は、突然一人の裕福な日本人貿易商の出迎えを受け、非常に驚いている。オットソン(日本名音吉)というこの元漂流民こそ、日本人初のシンガポール居住者であった。
 それ以来、多くの日本人が洋行の途中でシンガポールに立ち寄り、様々な文章や絵を残してきた。具体例として、森鴎外・夏目漱石・永井荷風といった文学者や、久保田米僊・今村紫紅・横山大観ら美術家の名前を挙げることができる。また大東亜戦争中には、徴用された文化人が続々と南方を訪れた。井伏鱒二は、第25軍の後に随ってマレー半島を自転車で縦断し、シンガポールで英字新聞の編集長になっている。藤田嗣治をはじめとする従軍派遣画家も、この海峡都市に滞在し、帰国後戦争画を発表した。宮本三郎の《山下・パーシバル両司令会見図》は、現在もシンガポールで歴史教材として使われている。映画監督小津安二郎は、国策映画撮影のためこの島に派遣され、終戦後まで住み続けた。
 従来、日本シンガポール関係史の研究対象は、娘子軍をはじめとする日本人居留民や、その中核であった日本人学校、あるいは第二次世界大戦史などが中心だった。私はむしろ、旅行者訪問者としてこの地を訪れた日本の文化人の記録に着目し、季刊誌『シンガポール』(日本シンガポール協会)に、「日本人のシンガポール体験」と題する文章を40回近く連載してきた。本発表はこの成果に基づきつつ、幕末から戦後に到るまでの日本人が、いかにシンガポールを描き、どのような視点で見て来たのかについて述べてみたい。
 近代日本の文学や美術は、ひとり日本のみならず、広く世界を描き、世界を語って来た。国民一人あたりGDPアジア一位の座を、日本がシンガポールに譲り渡した現在、近現代の日本人がシンガポールに見てきたもの、見てこなかったものを分析することは、今後の日本の行く末を考える上でも、意味のあることと思われる。

2009年3月14日

シンポジウム内容③

○太平洋諸島の「脱植民地化」と日本文化
須藤直人(立命館大学)
 
 太平洋諸島の文化と日本文化の相互的な影響関係やイメージの往還を、「脱植民地化」という文脈において考えたい。
パラオのアバイ(集会所)は、自然や社会との結びつきを象徴する建築物であり、世界との関係を取り結ぶ場所である。だが植民地支配と観光はアバイを「卑猥」「幼稚」な「エキゾティック」な建物に変えた。ドイツや日本の統治下にあった当時から、その側壁に描かれた物語絵が「観光のまなざし」の的となるが、アバイにおいて男性が他村から送られる女性(モゴル)と出会う制度が公娼制度と解され、アバイに宿泊することは「野蛮」な風習と見られた。彫刻家であり民族学者である土方久功の影響により、アバイの物語絵がストーリー・ボードとして旅行者向けの土産物となると、パラオにとってのアバイの意味が再び変わってゆく。他方、パラオにおいて土方と親交があった中島敦の短編にはアバイの絵物語を題材としたものが見られる。そこでアバイは、植民地支配・資本主義システムに服しながら同化されない単独性の表象という意味を与えられている。
タトゥ(刺青)も自然や社会との関係性を構築するための「衣装」であったが、同様に「野蛮」な風習と見なされると、もはやそれは「衣装」ではなくなった。サモアの作家アルバート・ウェントは、タトゥを「衣装」と見るサモア社会の見方を、日本語の「和」という言葉を用いて説明している。「裸」にされた身体に再び「衣装」を着せること、すなわち、植民地支配の影響を受け、資本主義システムに包摂されながらも、単独性を保持した関係性や主体を再構築することが脱植民地化であり、日本を訪れたウェントはそのようなサモアと共通の単独性を日本に見出している。こうした単独性を相互に結びつける場として「オセアニア」を捉える太平洋作家達に呼応する様に、ミクロネシアを訪れた池澤夏樹の小説テクストは、ストーリー・ボードと並びパラオを世界と結び付ける、18世紀に初めてイギリスを訪れたパラオ人リー・ボーの「高貴な未開人」のイメージを書き換えている。

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