2009年3月14日

シンポジウム内容②

○日本の文学・美術に描かれたシンガポール
西原大輔(広島大学)
 
 幕末の1862(文久2)年、遣欧使節団の一員としてシンガポールに寄港した福沢諭吉は、突然一人の裕福な日本人貿易商の出迎えを受け、非常に驚いている。オットソン(日本名音吉)というこの元漂流民こそ、日本人初のシンガポール居住者であった。
 それ以来、多くの日本人が洋行の途中でシンガポールに立ち寄り、様々な文章や絵を残してきた。具体例として、森鴎外・夏目漱石・永井荷風といった文学者や、久保田米僊・今村紫紅・横山大観ら美術家の名前を挙げることができる。また大東亜戦争中には、徴用された文化人が続々と南方を訪れた。井伏鱒二は、第25軍の後に随ってマレー半島を自転車で縦断し、シンガポールで英字新聞の編集長になっている。藤田嗣治をはじめとする従軍派遣画家も、この海峡都市に滞在し、帰国後戦争画を発表した。宮本三郎の《山下・パーシバル両司令会見図》は、現在もシンガポールで歴史教材として使われている。映画監督小津安二郎は、国策映画撮影のためこの島に派遣され、終戦後まで住み続けた。
 従来、日本シンガポール関係史の研究対象は、娘子軍をはじめとする日本人居留民や、その中核であった日本人学校、あるいは第二次世界大戦史などが中心だった。私はむしろ、旅行者訪問者としてこの地を訪れた日本の文化人の記録に着目し、季刊誌『シンガポール』(日本シンガポール協会)に、「日本人のシンガポール体験」と題する文章を40回近く連載してきた。本発表はこの成果に基づきつつ、幕末から戦後に到るまでの日本人が、いかにシンガポールを描き、どのような視点で見て来たのかについて述べてみたい。
 近代日本の文学や美術は、ひとり日本のみならず、広く世界を描き、世界を語って来た。国民一人あたりGDPアジア一位の座を、日本がシンガポールに譲り渡した現在、近現代の日本人がシンガポールに見てきたもの、見てこなかったものを分析することは、今後の日本の行く末を考える上でも、意味のあることと思われる。

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