◆7.0歌舞伎と浮世絵目次

団十郎ばゞあ

団州百話』につぎのように書いてある。

当時右の津藤氏につゞきて団十郎贔屓なりしは、せ組(二番)の鳶頭道具の代治という男なりき、この男は元地の三芝居はいつ何時にても無代価にて勝手に見物の出来るという特別の人物なりき。其次は有名なる団十郎ばゝあのおよしなり。この婆さんも代治と同じ様に自由に見物の出来る身の上にて何日でも小一の正面座で見て居るなり。この人の一つの癖は、狂言の中にても事に依ると舞台の役者と談話を初めるなり。当時は大抵の役者、いづれも此婆さんの気に入るように勤めたりき。此婆さん家は八丁堀にて亭主は秀吉とて鳶の者なりき。婆さんは女髪結にて八丁堀の旦那衆(町奉行付の与力同心の類)へ立入て大に羽振がよかりし。


役者絵と役者絵本

清信による「四方屏風」が、当時あった役者絵をあつめた役者絵集なのか、独立した作品なのかは、まだわからない。

忠臣蔵と浮世絵

 浮世絵の画題の中で、もっとも多く描かれたものに「忠臣蔵」がある。忠臣蔵は、その討入り事件が江戸人にとって大変インパクトがあったと同時に、同時代の事件を芝居や小説にしてはいけないという約束があったにも関らず、その間隙を縫って数多くの作品に文芸化されたていた。中でも、寛延元年(1748)に大阪の竹本座で初演された「仮名手本忠臣蔵」は、その完成度が高く、翌年までには、主要都市で歌舞伎化され、とくに将軍お膝元の江戸では、官許の大劇場3座がすべて「仮名手本忠臣蔵」を出し、競演となって、江戸にはなくてはならない演目としてそれ以降頻繁に上演されたのが、「忠臣蔵」物を多くした原因である。
立命館ARC所蔵の忠臣蔵浮世絵

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