C0 子ども絵本の発生と変遷

 現在報告されている、最古の刊行された子ども絵本は三重県松阪市の旧射和寺にある地蔵菩薩の胎内から発見された上方版の小型本である。その中には寛文7年(1667)の刊記をもつ『牛若千人切 はし弁慶』があり、従来江戸の最古の子ども絵本とされていた『初春のいわひ』(延宝6年(1678))を十年以上も遡るものであった。
 江戸では、『初春のいわひ』のような赤小本から享保期に中本へと展開し、青本・黒本に繋がる草双紙の判型を定着させた。それらは、明らかに幼童を読者として描かれている。青本・黒本へ移ると、人形浄瑠璃や歌舞伎の筋書を取入れたような複雑なストーリーが多くなり、子どもだけを対象とするものではなくなった。そして次第に、内容に高度な遊びが取入れられるようになり、黄表紙へ移って成人向けの絵本となっていくが、黄表紙やそれをさらに長編化した合巻の時代になっても、草双紙形態での子ども絵本は継続して刊行され続け【参考図】、明治期にまで及び、西洋から輸入された化学染料による赤・紫を用いた「明治赤本」が出回っていった。また同時に、絵本を教育のための道具として活用されるようにもなる。さらに、西洋の文化が流れ込み、西洋に関する知識も絵本に載るようになっていくが、それだけでなく日清・日露戦争と戦争を繰返すなかで子ども絵本にも忠君愛国、富国強兵、戦争賛美などの思想が色濃く盛り込むことで、帝国主義の理念を子どもたちに植え付けていたのである。明治後半になると石版技術や銅版技術を用いて、装幀にも変化を来した。そして明治40年代、歴史英雄物語や昔話、乗物、お伽噺、生活などが題材に用いられた、大衆的で安価な「赤本絵本」が金井信生堂などから大量に出版された。(浅a)

【参考図】
『幼遊おどり尽し』
絵師:勝川春亭
判型:豆本(切付表紙) 1冊
出版:文政元年(1818)頃ヵ
所蔵:立命館ARC 資料番号:arcBK05-01119.