B1.0 絵本と画譜

 鎌倉時代の成立になる『古今著聞集』十一「紫宸殿賢聖障子ならびに清涼殿などの障子畳の事」には「此の障子の絵本ども、鴨居殿の御倉にぞ侍なる。建長の造内裏のとき、絵所の預前加々の権守有房、絵本をもたざりければ、取出してかゝせられけり」とある。平安京内裏の障子に絵を書くにあたって手本とする本が京都室町西の鴨居にある蔵にあったので、そこから手本を取り出してきて書いたというのである。当時、絵本は宮廷や大和絵大家の絵師に限られたものだった。したがって、「絵本」という語は容易く使えるものではなかった。菱川師宣が「絵つくし」を冠する絵本を「絵本づくし」と言い換えたのは、師宣が土佐・狩野・長谷川家といった大和絵大家の筆意に基づきながら自らの画技によって工夫を加えた自負による。師宣は、大和絵の「絵手本」を目指したものであろう。
 江戸初期には、中国画譜の和刻が出されており、山水・花鳥図などを載せた明清の画譜はしきりに日本に輸入されていた。和刻本『八種画譜』(寛文12年(1672))は、狩野派の絵師らを中心に愛玩されていた。日本で画譜が制作される際も中国の画譜の模倣から始まっており、そこから多色摺りなど多種多様な技術の発展する。
 絵本・画譜は、元禄期から享保期にかけて、画法書としての展開をみせ、詳細な画法が記されるものも出現する。そして、絵本と画譜を共に受容していた浮世絵師たちにより二つの性質が融合した絵本が生れてきて、描くためでなく鑑賞する受容層にも浸透して多様化した。(戸a.)

【参考作品】
唐詩六言画譜(『八種画譜』の内)
編著者:黄鳳池
書型:大本 8巻8冊
出版:寛文12年(1672) 
所蔵:大英博物館 作品番号:JH017-2.

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