2007年02月23日

●八百屋お七

『役者全書』(安永三年)には
「○八百屋お七
夫より享保三戌年春市村座にて三条勘太郎相つとむ。是先代喜世追善とてせしゆへに、かの喜世三が紋「封じ文」を付たり。此節又々はんじやうす。是よりしぜんと封文をお七が紋のやうになりし也。三ヶ津共に是を付る。されバ喜世三をお七の開山とし、勘太郎を中興の祖とす。」
とある。
また、
『役者名物袖日記』(明和八年)には
「右丸のうちに封文の紋ハ、古人嵐喜代三といふ女がたの定紋なり。面色うるはしくて上手なりしと。初て八百屋お七の娘がたにて殊の外の大あたりを取、それより名ヲあらはし、今もつてお七の役をする女がたハ此紋を付る。今ハお七が紋になりしとなり。」
とある。

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2007年02月22日

●八百屋お七

『其往昔恋江戸染』 のあらすじ
天人に似た美女と評判の八百屋娘のお七は、吉祥寺の寺小姓吉三郎と恋仲にあるため、範頼公への妾奉公を嫌がり、逃げ出してしまう。お七は吉三郎が今宵中に剃髪出家すると聞き、気の動転したお七は夜になって閉ざされた木戸を開けてもらいたい一心で、櫓に上り太鼓を打つ。この時代、みだりに櫓の太鼓を打つと火刑に処せられることになっていた。
仁田四郎の温情有る取調べにもかかわらず、お七は死罪と決ってしまうが、鈴ヶ森で処刑の寸前に赦免される。
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2007年02月13日

●菅丞相の衣裳

●現代の菅丞相
現代の歌舞伎衣裳で雲と稲妻両方の文様が衣裳で用いられている役として『菅原伝授手習鑑』天拝山での菅丞相が挙げられる。

この場の菅丞相の衣裳は
「白綸子白上付付き半着付、
銀地稲妻に雲繍直衣、
朱色龍紋大下、
銀地織物雲繍長袴、
白羽二重衿袖襦袢、
銀稲妻垂平」
である。(『歌舞伎衣裳附帳』より。

菅丞相は天拝山の場で時平の帝位を狙う野望を知って激怒し、雷神となって都を目指す。

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2007年02月08日

●不破伴左衛門の衣裳

●不破伴左衛門の現行の衣裳

紺木綿雲龍に雷繍羽織
茶地織物割帯
鼠羽二重衿袖羽根付き襦袢
鼠羽二重紐付、手筒
鼠羽二重裾除
である。

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2006年11月08日

●お三輪-2

これまで、現代の衣裳と同じ形式を舞台で用い始めたのは九代目の市川団十郎だと言われている。この話は五代目中村歌右衛門の話として「着附は、上着が振袖で、草色の石持に緋縮緬の裾回し…これがマァ普通の仕来りですが、(中略)団十郎さんの時は人と違って、十六むさしの模様を着ました。四度目の時には、それを真似て、十六むさしの模様を着ました。(後略)」(『国立劇場上演資料集』所収。初出は昭和15年『演芸画報』)にも確認でき、ここでは団十郎が他の役者とは違う衣裳を用いていたこと、この時にはすでに草色の石持の着付が「仕来り」となっていたことがうかがえる。 また、『演芸画報』(明治41年10月)に市川女寅(六代目市川門之助)の話として「只だ着附と鬘は九代目団十郎の通りで、(中略)着附は萌黄地の縮緬へ十六むさしの模様、下着は朱と浅黄の鹿子の段々染、(後略)」とあり、この衣裳の形式は現代の物とほぼ同形式である。しかしながら、どのような経緯で団十郎がこの衣裳を用いたのか、どのようにして他の役者も用いるようになり、いつ頃から定着したのかという詳細な経緯は定かではない。

2006年10月13日

●妹背山婦女庭訓のお三輪

妹背山婦女庭訓のお三輪は四段目から登場する人物で、杉酒屋の娘である。「田舎娘」として登場している。 現在のお三輪の衣裳は「黒繻子衿付き萌葱縮緬十六むさし裾模様振袖赤裾段鹿子絞赤裾付付き着付(石持)、赤縮緬鹿子絞黒繻子筋入り振帯、赤縮緬衿振袖丸襦袢、赤縮緬裾除、赤縮緬湯具、赤縮緬丸絎」である。(「歌舞伎衣裳附帳」より。) 萌葱(緑色)の地に「十六むさし」という明治期まであった盤上遊戯の模様が配されている。また、「擬着の相」となり、髪を乱し片肌を脱ぐと段鹿子(浅葱と紅)の模様が現れる。 実際の衣裳はこちら

2006年07月28日

●『色彩間苅豆』

『色彩間苅豆』の累の衣裳、淡紫色の秋草繍模様の振袖の下に着る襦袢は「白羽二重衿白地に赤紅葉模様の丸振袖」と言います。 襦袢は着付の下に着ているので普段は模様が見えないのですが、累が与右衛門に鎌で斬りつけられた後、肌を脱ぐと現れます。この赤紅葉を累の「血汐」に見立てて、衣裳によっても情景を表現しています。 血を流す場面ではありますが、血を紅葉に見立てることによって全く違う情景に見えます。