●能絵展 その1(2007年6月)

アート・リサーチセンター所蔵
 能絵展
作品展示期間:2007年6月25日~7月6日
会場:立命館大学アートリサーチセンター 1F展示室

主催:立命館大学アート・リサーチセンター
企画:京都芸能プロジェクト 

●ご挨拶

 アート・リサーチセンターでは、江戸時代以降の能楽にかかわる資料を数多く所蔵しています。なかでも、能楽の舞台や道具などを絵画で描いた資料が多いことに特徴があります。これらの現物を見ていただくよい機会と考え、今回、能楽写真家協会写真展に併設のかたちで、能絵展を企画しました。今後、できるだけ多くの作品を展示していきたいと考えています。
 能楽を対象とした絵画は、江戸時代まではあまり描かれたことがなく、今回展示する浮世絵の世界でも独立した画題として成立していた訳ではありません。幕末以降、庶民が能を鑑賞する機会も増え、また、歌舞伎に能楽から取込んだ作品が生まれるにしたがって、描かれる機会も増えてきました。明治に入ると能楽界は一時期衰退の危機に瀕しますが、時の名人たちの努力により復活を遂げ、明治30年代からは、絵画の世界でも能を対象として選ばれるようになりました。その代表的絵師が、月岡耕漁で、能楽を対象としたシリーズ物を手がけ始めます。庶民が、能の稽古にいそしむまでに豊かになり、能楽趣味が増大してきたというひとつの証しと理解できると思います。
 能面と能装束に身をかため、演目ごとの大きな演出の違いを見出しがたい能の場合、どのように作品を描いていくか、絵師の工夫が求められるところですが、それゆえに、絵師たちの能と向合う姿勢が作品に表われてきて、それを読み解く楽しさがあるのです。この展示では、その読み解きの試案を解説として提示しました。皆様のご意見をいただきたいと考えています。
 能楽を対象とした絵については、「能画」とか「能楽画」ともいい、それを描く画家を「能画家」と呼ぶことも多いようです。本展示では、あまり使われたことがない「能絵」(のうえ)という言葉を使っています。浮世絵の世界では、「風景画」などという「○○画」という言い方が出てきたのが近代になってからであること、能画という場合と違い、能絵の方が優美さや温かさが感じられるという主催者の好みによるものです。
 今回展示する作品を鑑賞してもらうことで、なぜ「能絵」としたかの理由を感じ取っていただければ幸いです。

 2007年6月25日                       立命館大学アート・リサーチセンター
                             京都芸能プロジェクト 代表 赤間亮

●面箱(めんばこ)

UP0948S.jpg[場面解説]
面箱持がはじめに幕内から登場する。面箱持の出立は直面、侍烏帽子に直垂裃である。この面箱の中には、神体である白色尉と黒色尉の二面が入っている。
能「翁」にしかない演出やきまりごとは多く、この曲に限り、舞台に上がる全ての人はこの幕から出る。したがって切戸口は使用しない。

●翁(おきな)

UP0842 翁の舞である。この翁が纏っている装束は、翁烏帽子に翁狩衣、そして指貫である。とりわけ狩衣は、蜀江文様と決まっており、他に例は無い。 今日における「翁」は正月や祝賀、記念能などの番組の冒頭で演じられ、特別な祝いの場で我々は見ることが出来る。老体の神が祝福をもたらすという民俗信仰に関係し、子孫繁栄、天下泰平、国土安穏、五穀豊穣を祈る。 翁は別名「式三番」と呼ばれ、父尉、翁、三番猿楽(三番叟)の3演目を指す。面そのものが神体とみなされ役者は舞台でそれぞれ父尉、白色尉または肉色尉、黒色尉の面をつける。現在の上演では父尉を省略する形が一般的で翁は能役者、三番叟は狂言役者が演じる。「翁」は農耕との深いつながりがあり、また農村で生活をしていた庶民の風景を彷彿させる要素もある。

●二人翁

UP0946 [場面解説]
翁が二人の珍しいものである。両手を左右に大きく広げ「およそ千年の鶴は、万歳楽と謡うたり。また万代の池の亀は、甲に三極を戴いたり。滝の水、冷々と落ちて、夜の月あざやかに浮んだり。渚の砂、索々として、朝の日の色を朗ず。天下、泰平国土安穏の、今日の御祈祷なり。」と謡う。翁の面には柔和な表情が刻まれており、寿ぎの色に満ちた描写である。

●三番叟・千歳

UP0947[場面解説]
三番叟の舞には揉之段と鈴之段があるが、本作品では黒色尉の面を着けているため、鈴之段であるとことがわかる。三番叟の手に鈴は見えないが、鈴之段では種を蒔くように鈴を振って鳴らし、五穀豊穣を願う。 傍らには、露払いの千歳が下居している。手前に見える柱はワキ柱で、舞台を見所のワキ座側からとらえたものである。

●翁式三双図

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[場面説明]
大判三枚続きの画面を使い、翁の舞を舞台全体で見渡している。向かって左側には、舞台の常座奥に下居する三番叟をとらえている。三番叟の他には、囃子方や後見、地謡が見える。翁の舞では大鼓は演奏しないため、床几にはかけず、三番叟と同様に下居して横を向いている。
 中央の翁太夫が纏っている装束は、翁烏帽子に翁狩衣、そして指貫である。とりわけ狩衣は、蜀江文様と決まっており、他に例は無い。有名な「とうとうたらり」のくだりであるが、観世・金剛の二流は「とうとうたらりたらりら」、金春・喜多流は「どうどうたらりたらりら」、宝生流は「とうどうたらりたらりら」と謡い方に違いがある。
 やがて千歳の舞となり、それに続く謡や翁の舞の後、「千秋萬歳の喜びの舞なれば 一舞舞はう萬歳楽 萬歳楽 萬歳楽」という謡で終了し、三番叟に変わる。
 向かって右側には、面箱と後見、そして千歳が下居している。この千歳の着けている千歳直垂は、通常の切金文様に鶴亀をあしらったものではない。鶴亀は見えるが、切金文様ではなく笹が描かれている。
 内には亀甲文様の厚板を着用しており、吉祥に満ちた意匠が多く、装束から見ても祝言性の高さがうかがえるのである。

●蝉丸(せみまる)

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[あらすじ]
 醍醐天皇の第四皇子として生まれた蝉丸の宮は幼い頃から盲目だった。帝は待臣の清貫に命じ、蝉丸を逢坂山に捨てて来させる。清貫はこれは蝉丸の前世の罪を償い、後世によい果報が来るようにとの帝の御慈悲なのだと言い聞かせ、剃髪させる。
そこでは唯一の同情者博雅三位によって藁屋が作られ、蝉丸はその中で琵琶を弾いて暮らしていた。
一方、蝉丸の姉宮である醍醐天皇の第三皇女の逆髪は、髪が逆さに立つ病があり、心が乱れさまよい歩いていると逢坂山にたどり着いた。どこからか琵琶の音が聞こえてくるので、音が聞こえる方へ進むと、そこには弟宮・蝉丸がいた。二人は手を取り合い、互いに不幸を嘆き悲しんだのち、いづこへともなく去ろうとする姉宮の後ろ姿を、蝉丸は見えぬ目で見送るのであった。

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●項羽(こおう)

UP0925.jpg[あらすじ]
 草刈りたちは、偶然来合わせた老人の渡し船に、便船を求めた。すると老人は船賃はいらないから乗りなさいという。やがて対岸についた時、老人は草刈りに船賃の代わりに背負っている籠の中にある虞美人草がほしいと言う。理由を尋ねると、この花は項羽の后虞氏を埋めた塚に咲いた花であると答え、項羽と漢の高祖の戦いの末、高祖に破れた項羽こそが自分であると明かし、弔いを頼み消えていった。
その夜、草刈りの夢の中に矛を持った項羽と虞美人の霊が現れ、華やかだった昔を偲ぶ。そして虞氏が身を投げ、項羽が矛の柄で探すも虚しく、再び戦の場へ戻り、悲憤の末の自刃までを再現してみせる。
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●白楽天(はくらくてん)

UP0920[あらすじ]
中国の詩人・白楽天は日本の知力を試せという勅令を受け、松浦潟までやってきた。そこで小舟に乗って釣りをしている漁翁と漁夫に出会う。すると漁翁は楽天の名前・渡来の目的を当て、楽天が目の前の景色を見ながら詩を作ると、直ちに和歌に翻訳する。老漁は日本では蛙や鶯までもが歌を詠むのだといい、舞楽の遊びをして見せようと言うと消えていった。
老漁は、実は住吉明神の仮の姿であり、やがて気高い老体の神姿で現れ、舞を見せた後に多くの日本の神々と共に神風を起こし、楽天を中国へと吹き戻すのだった。
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