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2007年11月 6日

第6回GCOEセミナー(楠井清文)

「1940年代朝鮮の日本語小説研究-雑誌『国民文学』の分析を中心に-
【発表のまとめ】
第6回火曜セミナーの楠井による報告は、「外地」特に植民地時期の朝鮮における文化状況を、雑誌『国民文学』の分析から探るというものだった。報告の前半では、日本文化の浸透を、日本語教育の普及や内地からの雑誌移入量の増加という面から論じ、後半では「国民文学」という概念や文学者の活動に触れた。そして結論として雑誌研究の意義を強調し、今後の展開では日本語で刊行された雑誌の目録化とデータベース化を行いたいとした。

報告後のコメントでは、主に以下のような質問があった。
 ①当時日本の雑誌や大衆文化に親しんでいたのはどのような階層の人々か?
 ②朝鮮で日本語により刊行された雑誌には文学以外にどのようなものがあるか?
 ③データベース化とは具体的にどのような形態を考えているのか?
 ④文学以外のサブカルチャーに関する資料をどこまで取り入れるか?
 ⑤フルテキストで保存した場合、著作権の問題をどう処理するか?
これについて報告者は、以下のように応答した。
 ①全人口ではなく一部の階層だと考えられるが、その実態については調査中
 ②総督府関連の物、経済雑誌等の専門誌が多く存在。文学以外の芸術雑誌も視野に入れていきたい
 ③形態・目的など今後研究を進める中で具体化したい
 ④②とも関連するが、パフォーミングアーツなど大衆文化などの移入動向も参照したい
 ⑤③と関連させて検討
また、日本語雑誌の移入の増加に関して、実際の受容層は日本人ではないかという、資料の扱いに関する指摘もあった。
発表の記録

コメント(12)

③に関連して、本史料をDB化するにあたって最低限載せるべき項目は設計段階で規定しておく必要があるかと思います。

そこで、他分野における活用方策は今後議論とするにしても、楠井さんのご専門分野で必要とされ載せなければならない項目は具体的にどのような内容なのでしょうか。

當山日出夫 : 2007年11月14日 12:23

文学と言語(日本語・国語)が、きわめて微妙な問題であることが、まず、説明しなければならないことかもしれません。私(當山)は、たまたま「日本語学会(←旧称:国語学会)の会員なので、この視点については、無関心でいららません。ただし、この方向の議論は、DHの場面では、ふさわしくないので、これ以上言いませんが、楠井さんが御専門の近代文学研究の方面で、研究発表なさるときには、重要なポイントであるとは思っております。

たぶん、他分野(私をふくめて)の人にわかりづらいのは、近代文学研究にコンピュータがどのように利用可能か、あるいは、どのように使われているのか、ということの、具体的事例がはっきりしないところに起因するのかと思います。

古典文学(近世以前)ですと、作品の画像データの利用など、思い浮かぶところです。また、日本文学でも「漢文学」ですと、中国の文学との影響関係を、テキスト「ことば(漢字)」のレベルで追求することができます。

近代文学として、「現代日本語」「活字」であることを前提にしたものになりますと、画像よりも、フルテキストをあつかった研究の方向にむかいます。

文学に限って、個々の作品、あるいは、作家についての各種の情報(書誌情報など)については、データベース化できますが、それだけから見えてくるものは、限界があるでしょう。

そうなると、
1.作品の内容そのものにふみこんだ研究の方向をさぐる
2.文学以外の分野(絵画・演劇・音楽など)との関連で考える
などの方向が考えられます。

いわゆる日本文学研究のなかでの近代文学研究で、コンピュータの利用可能性がどうなのか・・・という議論がベースにないと、朝鮮などにおける日本語文学に拡張しても、DHの意義が見いだしがたいように思えます。(しかし、だからといって、楠井さんの日本語文学研究の価値の評価は別ですので、誤解のないように。)

近代文学研究でのコンピュータ利用の現状がどうなのか、研究会などあれば、みなさんにお知らせくださると、楠井さんの御研究に対しての理解が深まると思います。(笠間書院のメールマガジンは、かなりチェックしているつもりですが、このMMを見ている人は、JDHのメンバーでも限られていると思いますので。)

當山日出夫(とうやまひでお)

注:笠間書院メールマガジン
笠間書院は、日本文学・日本語学関係の専門の出版社。ここが出しているメールマガジンは、非常に充実していて、日本文学・日本語学関係の、研究の動向・各種研究会の開催など、把握できます。
笠間書院のHPは、
http://kasamashoin.jp/

楠井清文 : 2007年11月15日 12:30

>tos様

項目を事前に検討しておくべきとの指摘ありがとうございました。どのような手順でDBを作成するか模索中ですので助かります。
具体的には外地で発行された文学関連雑誌の総目次のDB化を考えています。従って文章の筆者・タイトル・ジャンル・掲載誌・発表年月日・頁・発行所・所蔵機関などが必要事項となります。

現在『国民文学』など復刻されたものに関しては総目次がありますが、あくまで雑誌それぞれのものであり、全ての文学雑誌で総目次が作られているのでもありません。
そこで、複数の雑誌の総目次をDB化していくと、例えばある著者がどのような雑誌に書いていたか、複数の雑誌間で人的交流はなかったか、といった当時の状況が明らかになると思うのです。

他の雑誌については、どこまで範囲を広げるかは検討中ですが、少なくとも総目次が既に存在するものはDB化してはどうかと考えています。
また、閲覧困難な資料や、広告など視覚イメージの必要なものは画像化して取りこんでいけばよいとも考えています。

楠井清文 : 2007年11月15日 12:43

>當山先生

懇切なコメントありがとうございました。確かに「現代日本語」「活字」中心である日本近代文学研究という分野で、コンピュータを用いた方法がどこまで有効性を持つのか、という議論を踏まえなければ、現在のプロジェクトは前へ進まないと思います。その点で、二つの方向性の示唆は大変有益でした。

近代文学のデジタルアーカイブ化の動きとしては、直筆原稿や作家の蔵書の書き込み本(東大鷗外文庫のような)など、活字化された字面からもれてしまうような情報を保存するものが多いようです。
直接本研究には結びつかないかも知れませんが、今後近代文学研究での動きも逐次日本文化研究班ブログで紹介していきたいと思います。

西川良和 : 2007年11月15日 12:52

ちなみに、日本文化研究班のブログのURLは
 https://www.arc.ritsumei.ac.jp/lib/GCOE/JCSG/

楠井さんの所属している木村研究室のブログのURLは
 https://www.arc.ritsumei.ac.jp/lib/GCOE/kimura/

になります。

當山日出夫 : 2007年11月15日 20:57

近代文学研究におけるコンピュータ利用は、どんなふうなのでしょうか? 私の方は、この方面にはまったく門外漢なので、知識がありません。言語研究の方面では、国立国語研究所の「太陽コーパス」とかがあります。また、最近では、青空文庫から、用例を採取しての言語研究(学会発表・論文)なども、目につくようになりました。

これまで、情報処理学会の人文科学とコンピュータ研究会(CH)など、各種の研究会でも、あまり近代文学を対象・事例とした、発表に接した記憶がありません。

文学作品のデジタル・アーカイブの問題・・・情報工学からではなく、文学研究の方面からの考察は、明星聖子さん(みょうじょうきよこ・埼玉大学)が、いくつか発表しています。明星さんの専門は、ドイツ文学(カフカ)。この前の発表では、宮沢賢治全集の校訂の問題をあつかっておいででした。(明星さんとは、時々、メールをやりとりする仲なのですが。)

文学作品のデジタル・アーカイブとは、いったい何をどうあつかうのか、それを考えるのは、文学研究者の責任である・・・というのが、(私の理解するところの)明星さんの、基本的スタンスです。

宮沢賢治は、ご存じのように、生前に活字になったものがほとんどありませんので、全集の本文校訂が、きわめて問題になります。

このような視点からの考察は、日本の近代文学研究者において、はたしてどれほどなされているものなのでしょうか。

ところで、今、私の手元には、

『直筆で読む「坊っちゃん」』、集英社新書、2007

があります。この本、著者は、夏目漱石、でいいのでしょうか(岩波書店は、夏目金之助としますが)。校注をつけたのは、秋山豊。これが、近世以前の文学作品の影印複製・翻刻であれば、解説・校注者の名前が、まず出ます。

近代文学作品のデジタル化と本文校訂ということに、今の日本の近代文学研究者は、どのように自覚的であるか・・・このあたりが、もうすこし知りたいところです。

當山日出夫(とうやまひでお)

おまけ
『されど われらが日々―』(柴田翔)、文春文庫で、新しい版で出ましたので、おもわず買ってしまいました。学生のとき、何度か読んだ本です。こういうことを書くと、まったく歳がばれますね。

當山日出夫 : 2007年11月18日 19:16

みなさん、あまり、このブログに書き込みませんねえ。研究としては「完成」したものを提示して、それを評価・・・というのが、これまでのあり方でした。しかし、「デジタル・ヒューマニティーズ」というのは、そもそも、このような、研究のあり方そのものを、考え直すところにも意味があるのでは、ないでしょうか。

いま、手元にある本ですが、(これを書いている、レッツノートの横に積んであるうちのいくつか)
『複数の「古代」』、神野志隆光、講談社(講談社現代新書)
『百年前の私たち』、石原千秋、講談社(講談社現代新書)
『読書の学』、吉川孝次郎、筑摩書房(ちくま学芸文庫)
『歴史としての戦後史学』、網野善彦、洋泉社(洋泉社MC新書)

それぞれに、知的刺激に満ちた内容のものであると、私は、読みましたが、さて、では、これらの仕事が、どのようにコンピュータとかかわるのか・・・となると、はっきり言って、さっぱり答えはでません。正直、わかりません。(網野善彦の本についていえば、史料編纂所のDBということで、多少のかかわりをもつでしょうが。)

じゃあ、どうすればいいか・・・いったん、コンピュータという機械から離れて見ることが必要かもしれません。「コンピュータ」ではなく、「情報」というさらに広い視点から考えてみれば、いいのかもしれません。この視点から見るならば、石原千秋の本は、現在、インターネットに依存してしまっている現在の我々の生活と、どこかでつながるところが見えてくるでしょう。この意味では、他の本も同様です。「情報資料論」とでも言えばいいでしょうか。

そのうえで、近代文学研究をかんがえてみると、現在のコンピュータでは何があつかえないか、が見えてくると思います。「情報」のすべてが、デジタル化可能ではないと、考える余裕も必要でしょう。

現在の文学研究の方法論から、コンピュータの限界を考える、・・・こういう、いわば逆向きの、デジタル・ヒューマニティーズもあってよい、まあ、一種のひらきなおりも「あり」だと、は考えています。(また、こういう発想を視野に入れないでは、なんとかして、コンピュータで挑戦してみようという、チャレンジも生まれません。)

コンピュータでできないこと(できること)を考えるには、研究資料と研究方法の本質を、きちんと把握しておく必要があります。「情報資料論」です。

當山日出夫(とうやまひでお)

おまけ
これを書いたネタをばらしておきます。興味あるかたは、見てください。
http://www.shayashi.jp/HI_DEP/hi.htm

楠井清文 : 2007年11月19日 12:53

>西川様
URL掲示ありがとうございます。

>當山先生
御教示ありがとうございます。
またご返事が遅くなりましてすみません。文献を探していたら時間がかかってしまいました。

明星聖子氏の研究は今回初めて知りました。文学研究とアーカイブ化に関する論文が『情報処理学会研究報告』に掲載されていますが、BKCにありますので今度閲覧しに行きます。

手近で参照できたのは、以下の二本でした。
(1)「「正統なテクスト」の終焉――ドイツ文献学史概説の試み」『埼玉大学紀要』36(2)、2000
(2)「「本文」編集のアポリア――宮澤賢治全集の校本全集を例に」『出版研究』35、2004

(1)で興味深かったのは、伝承された写本相互の関係を扱う古典文献学と、活字化されたテクストを中心とする近代文献学とで目的が異なるという指摘でした。古典文献学が諸本間の異同(「伝承ヴァリアント」)から想定される「正統なテクスト」の復元を目指すのに対して、近代文献学では同一作者内での草稿から活字へいたる推敲過程での異同(「生成ヴァリアント」)を問題とする、ということです。ここから、後者はテクストの異同にできるだけ解釈を交えず、本文生成の複雑な過程をありのまま示した方がよい、という考えが生まれます。その到達点の一つを、「審判」の草稿をすべて写真版で提示した『カフカ全集』の態度に見ています。

また(2)で氏は、カフカや宮澤賢治のような流動的なテクストを、「本」というまとまった形で刊行すること自体の限界も指摘しています。書物は「メッセージ伝達体」であると同時に、「商品」でもある以上、社会的な流通に乗らなければならない、という制約を持つからです。

以上の動向は、「本」という形態で流通を考えなくても良い、テクストの画像化、などの点から、デジタルアーカイブ化が文学研究に持つ意義に繋がると考えられます。

(長くなりましたので二回に分けます)

楠井清文 : 2007年11月19日 13:05

(つづき)
その一方で、逆にデジタル化からこぼれ落ちるものへの注視も必要という指摘があります。
(1)木戸雄一「デジタルアーカイブと研究プロジェクトの時代の影印本――国文学研究資料館編「リプリント日本近代文学」について――」『日本近代文学』77、2007・11
(2)河野至恩「東京大学附属図書館「鷗外文庫プロジェクト」について」同

(1)は国文学研究資料館所蔵の貴重デジタル画像を利用して、オンデマンド方式で刊行している影印本についての報告です。
ここでは「デジタル画像自体は、紙媒体へのプリントも含め多様な出力形態を模索できる媒体」と、デジタル化の意義を指摘しながら、「デジタルデータは容易に増殖もし、消滅もする。特に危険なのは、そのデータの素性が辿れない状態で流通してしまう状態である。5W1Hの情報を失った文献は、学術情報として大きな欠陥を持つことになる。底本についての書誌的な解題をともなった、物体としての影印本は、そのリスクを軽減してくれるだろう」と述べています。

(2)は以前触れました「鷗外文庫」に関する報告です。このプロジェクトは、・蔵書の別置と書き入れの悉皆調査・目録データベース化・書入本画像データベースの作成、の三つから成り、デジタル・ヒューマニティーズと関連するのは三つ目だと思います。ここでは閲覧の簡便化とともに、「書入れの筆記具の素材(万年筆、鉛筆)、鷗外が分解・製本に用いた材料など、情報に変換される以前の本の特徴」などをどのように含めていくか、という問題も論じられています。

その意味で
>近代文学研究をかんがえてみると、現在のコンピュータでは何があつかえないか、が見えてくると思います。「情報」のすべてが、デジタル化可能ではないと、考える余裕も必要でしょう。

>コンピュータでできないこと(できること)を考えるには、研究資料と研究方法の本質を、きちんと把握しておく必要があります。

という當山先生の指摘は尤もだと思います。tosさんからもデータベース化の前にしっかりした議論をしておくように、とのことでしたので、何をアーカイブ化の対象としていくか、という今回の論議は(直接プロジェクトの内容とかぶらなくとも)有効だったと思います。


ちなみに『されど われらが日々―』昔読みましたが、記憶が薄れてしまいました。視点人物が交替する構成だったと思うのですが。

當山日出夫 : 2007年11月23日 13:41

大学は、文学部国文科の出身で、専門は「国語学」というような人間にとっては、近年の国語学批判について、思うところが無いわけではありません。いや、非常にありますが、とりあえず、おいておきます。とはいっても、最近の流れを見ていると、国語学批判のネタもそろそろ尽きてしまったのか、国文学(日本文学)の方向にも向かっているように看取されます。

このような状況にあって、「日本語文学」という研究領域を、新たに考えていくことは、きわめて重要な意義があります。楠井さんのご研究は、朝鮮(日本の植民地支配下)での、日本語文学を対象にしたものです。

この時代、逆に、日本から外国に行った人々(いわゆる移民として、アメリカや南米などに渡った)が、がいます。このような人々も、また、「日本語文学」の担い手であるわけです。

このように視野をひろげて考えてみるならば、日本語文学とDHのかかわりも、また、違ってくるかもしれません。

1.とりあえずは、日本語文学作品の書誌情報のDB化。
2.可能であるならば、そのフルテキストの入力。

ここまでは、簡単に思いつくことです。しかし、ここから先に何を考えるかとなると、非常な困難がまちうけていることになります。

広義の「日本語文学」は、では、狭義の「日本文学」(日本の国内に限定して)と、どう違うのかという、比較対照が、課題となります。しかし、比較対照の基本的なベースになる、狭義の「日本文学」の研究資料のデジタル化の現状はどうであるのか。また、それをとりまく、周辺の領域(映画・芸能・美術など)の資料のデジタル化の現状は、どうか。

しかし、絶望するわけにはいきません。とりあえず、考えられる理想的なデジタル化資料を想定してしてみて、そのうえで、DHのプロジェクト内の限定的な資源(人的資源・時間・予算・コンピュータの処理能力、など)で、何が現実に可能であるのか(ざっくばらんにいえば、業績になる論文が書けるのか)を、考えることになるでしょう。

少なくとも、今のコンピュータの技術では、「表象」というようなレベルをとりあつかうのは、かなり難しいことです。それを、どのような、現実的な「モノ」や「コト」と、関連づけていくのかが、課題となるはずです。

来月の「じんもんこん2007」(京大会館)では、いくつか文学にかかわる発表もあります。もし、御都合がつくようでしたら、是非とも。

當山日出夫(とうやまひでお)

楠井清文 : 2007年11月29日 10:12

當山先生

ありがとうございます。じんもんこん2007は、紅野敏郎氏の発表があるので、是非参加したいと思っています。

>近年の国語学批判について、思うところが無いわけではありません。

安田敏朗氏やイ・ヨンスク氏の研究にインパクトを受けた(その影響から脱したいとも考えている)者にとっては、「国語学」専門の方の意見は大変興味があります。

當山日出夫 : 2007年11月30日 11:30

インターネット時代の日本文学、ということも考えてみたいですね。

日本国内に住んでいる日本人が日本語で書いて日本の出版社から刊行したものが、日本文学である・・・このような概念は、インターネットの時代に、もはや通用しません。

日本以外にサーバがあって、日本以外のどこかにすんでいて、ネット上で文学作品を発表する・・・このようなことは、現実にあり得ることです。ただ、その時の使用言語が、日本語であるかどうか、だけが問題になる。

文学=書物、という発想は、日本語の表記史の方から考えても、いろいろ問題があることです。現在では、歌を書いた木簡の発見もあります。しかし、記紀万葉の時代は、基本的に、口承→書記、というプロセスを抜きにして考えることはできません。

この意味では、インターネット時代の文学を考えることは、はるか古代からの日本文学と書記・言語・流通、ということを、総合的に考え直す契機になることでもあります。

これもまた、デジタル・ヒューマニティーズの視点から見た日本文学研究であろう、と考えています。

當山日出夫(とうやまひでお)

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