京都映像文化デジタル・アーカイヴ マキノ・プロジェクト

 

 

二条城('10-'12)

法華堂('12-'18)

大将軍('18-'28)

等持院('19-'33)

御室('25-'35)

東映('25-)

大映('27-'86)

双ヶ丘('28-'53)

千恵プロ('29-'42)

 

J.O('33-'41)

第一映画('35-'42)

寛プロ('35-'50)

松竹('35-)

宝プロ('53-'87)

日本電波('62-'67)

下加茂('23-'74)

千本座 / 神泉苑

東洋現像所

 

 

  神泉苑

略地図

参考文献

 

 神泉苑は平安時代に天皇遊覧の所として建設され現在も二条城南側に在存する庭園である。
 1905年頃、日活の前身である横田商会は、日本映画創世記のカメラマンである土屋常二(本名・常吉)を制作技師として迎え入れこの界隈に映画フィルムの現像所を建設したという。当時、あたり一帯は東が町屋、西が田地と別れていた。この頃は日露戦争の様子を収めた記録映画が世界的に注目を集め映画界が活気付いており、その余波をかって、横田商会も日露戦争映画の配給に力を入れていた為、これらの事が契機となって現像所は建設されたのであろう。土屋はフランス製輸入映画の複写や横田商会自作映画の現像にあたったが、ほどなく横田永之助と不和になり、土屋の甥の福井繁一に後をまかせわずか1年半で横田商会から去った。この後、横田商会は“日本映画の父”と称される牧野省三を迎え入れる事になる。
 なお、神泉苑現像所の存在は通説とされているものの、現像所は別の場所に在ったとする説などもあり未だ確証には到っていない。

1895

2月 フランスの写真材料商であったオーギュストとルイスのリュミエール兄弟がシネマトグラフを発明する。

1886

3月 京都モスリン紡績会社の商用で渡仏していた稲畑勝太郎が、かつてのフランス留学先で同窓であったオーギュスト・リュミエールからシネマトグラフの機材と東洋での興行権を獲得する。

1887

2月 稲畑が大阪の南地演舞場(現在の南街会館)でシネマトグラフの初興行を行う。東京方面の興行には、かつて同じフランス留学生であった横田満寿之助の弟である横田永之助が担当する。後に、興行界の因習(当時は巡行先の興行師に騙されたり、地元のテキヤに威されるなどトラブルが絶えなかった)を嫌った稲畑はシネマトグラフの興行を断念し、機材・フィルムの一切と興行権を満寿之助・永之助の横田兄弟に譲る。 

1900

8月 パリ万国博覧会に京都府の出品委員として渡仏した横田永之助が当地の映画人気を目の当たりにし、フランス・パテー社とフィルム購入契約を結び帰国。

1901

横田永之助によって京都に横田兄弟商会(後に横田商会と改名)が設立される。

1904

3月 横田兄弟商会・吉沢商店・広目屋・博文館などが日露戦争実写撮影班を現地に派遣。日本各地で日露戦争映画が上映され大好評を得る。また、横田兄弟商会はこの頃に「横田商会」と名称を変更する(横田兄弟商会という名称は、横田商会の輸入部というかたちで日活に合流するまで存続し続けた)。

1905

3月 横田商会が土屋常二を制作技師として招き、二条城南側の神泉苑に現像所を建設する(現像所建設にこの界隈が選出されたのは、苑内に水量豊富な湧泉があり現像所として最適の場所と目された為であると考えられる)。

1907

7月 横田商会が大阪に、吉沢商店の東京・浅草電気館に続く日本で2番目の映画常設館である千日前電気館を開業する。

1908

6月 横田商会が福井繁一を起用し、横田商会初の劇映画『いもりの黒焼き』(喜劇俳優鶴屋団十郎一座が出演)を公開する。
9月 横田商会の依頼による、後に“日本映画の父”と称される牧野省三の初作品『本能寺合戦(太閤記の本能寺)』(京都・本能寺にて撮影)が公開され好評を博す。 

執筆者 荻野正人+紙屋牧子+板倉史明

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