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「宝プロダクション」は、“日本映画の父”と称されるマキノ省三の長女・冨栄の夫で、元東亜キネマの撮影所次長だった高村正嗣(正次)が、戦前の大衆文芸映画社、正映マキノ、宝塚キネマに続いて、1950年に設立した独立プロダクション。
設立当初は、双ヶ丘撮影所を使用して、新東宝との契約で時代劇を専門に製作し、のちに「緋牡丹」シリーズなどで東映京都の黄金時代を支える加藤泰が劇映画の監督デビューを果たした。
時代劇ブームで資金をためた宝プロは、東洋現像所に隣接した太秦安井池田町に念願の撮影所を建設。ブタ小屋が周囲にあったのどかな撮影所が、敷地約5000坪、3棟のステージに成長。間もなく経営が苦しくなり、自主製作を一時中止して東映とステージ賃借契約などを結ぶが、あえなく倒産。その後、「日本京映撮影所」名の貸しスタジオとなり、田坂具隆監督作品『ちいさこべ』の焼け跡シーンや、『マグマ大使』『木枯らし紋次郎』等のTV映画作品を世に送りだした。
現在はスーパーの駐車場になっているが、往時の巨木は健在。
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1950
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11月 高村将嗣(元・高村正次)が「宝プロダクション」創立。レッド・パージで大映から馘首された加藤泰が助監督として加入した。双ヶ丘撮影所を使用して時代劇を専門に製作する。
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1951 |
戦前から活躍していた萩原遼監督の弟で、宮川一夫のカメラマン助手や助監督で活躍していた萩原章が『又四郎行状記 神変美女峠』(宝プロ=新東宝)で監督デビューし、以後数作を宝プロで撮る。加藤泰も『剣難女難』で劇映画の監督デビューを果す。
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1952
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新東宝との提携を打ちきり、東映と提携して『南蛮頭巾』(丸根賛太郎監督)を製作。『ひよどり草子』(加藤泰監督)封切。
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1953 |
宝プロダクション撮影所設立 |
1958 |
宝プロ倒産、日本京映撮影所(貸スタジオ)になる。 |
1972 |
市川崑監督らのTV映画『木枯し紋次郎』が大ブームとなる。 |
1987 |
日本京映閉鎖。 |
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