京都映像文化デジタル・アーカイヴ マキノ・プロジェクト

 

 

二条城('10-'12)

法華堂('12-'18)

大将軍('18-'28)

等持院('19-'33)

御室('25-'35)

東映('25-)

大映('27-'86)

双ヶ丘('28-'53)

千恵プロ('29-'42)

 

J.O('33-'41)

第一映画('35-'42)

寛プロ('35-'50)

松竹('35-)

宝プロ('53-'87)

日本電波('62-'67)

下加茂('23-'74)

千本座 / 神泉苑

東洋現像所

 

 

  千本座

略地図

参考文献

 

 千本一条上るに位置していた劇場。1901年、牧野省三と省三の母・やなは、牧野家の地所内にあった約300坪の劇場・千本座を買収し、経営に乗り出す。その際劇場の大改築を行ったが、改築中に新京極常盤座の火事などが発生して劇場取締規則が厳しくなったため、取締規則に抵触してしまい数度改修を迫られた。
 同年9月1日にようやく開場式を行った。改築後の千本座の建物は、日本造りの2階建で、間口は8間半、奥行は14間(その内、舞台の奥行は4間)であった。その後省三が座主となり、小芝居だけでなく、時には活動写真の上映も行った。
 1908年、省三は横田商会の横田永之助から映画製作を依頼され、映画製作に手を染める。省三は当時千本座に出演していた俳優を総動員し、『本能寺合戦』を撮影する。翌1909年12月に、尾上松之助の主演第1作『碁盤忠信』を千本座裏の大超寺境内で撮影し、その後10数年の松之助ブームがはじまった。1926年9月、松之助の日活社葬が行なわれた際には、棺は堀川丸太町の松之助自宅から千本座前を通り、日活大将軍撮影所まで運ばれた。
 千本座は戦後「千本日活館」に変わり、現在は「無印良品」の店舗になっている。

1901

6月 改築中の千本座が一旦棟上げ式を行うが、劇場建築方法が規則に違反していたので改造を命ぜられた。 7月・8月にも改修を命ぜられているが、同年6月に新京極の常盤座で火事が発生し、劇場建築の規定が厳しくなったためである。
9月 1日午前9時より開場式が行われ、「牧野晴造(ママ)」(『京都日出新聞』)などが挨拶した。

1902

2月 尾上松之助一座が公演。松之助はこの他にも1905年1月と2月に千本座で公演を行っている。

1908

8月 横田永之助に依頼され、牧野省三が千本座に出演中の俳優たちを使い、映画『本能寺合戦』を撮影し、映画製作をはじめる(同年9月17日、錦輝館にて封切)。

1909

7月 牧野省三の依頼で尾上松之助一座が14日より千本座で公演し、その後数ヶ月間、千本座において続演した。
10月 17日、省三は千本座で公演中の尾上松之助を初めて映画出演させ、『碁盤忠信源氏礎』の撮影を開始。松之助は千本座で夜の公演が待っていたので、撮影は千本座裏の大超寺で朝の8時から午後5時まで行われた(1909年12月1日、浅草富士館にて封切)。

執筆者 板倉史明+紙屋牧子

Copyright(C) 2001 Makino Project All Rights Reserved.