1928
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3月 三共社社長の山崎徳次郎に共鳴した、大道具主任河合広始とキャメラマンの田中十三がマキノを退社し、貸スタジオとして双ヶ丘撮影所を設立、「日本キネマ撮影所」として使用開始。 4月 山崎徳次郎が全国の常設館主に呼びかけ、自主的な制作・配給・興行の確立を目的とする「日本活動常設館館主連盟映画配給社」を大阪に創設。この構想に乗った、片岡千恵蔵、嵐長三郎(寛寿郎)などのマキノのスターがマキノプロを脱退、それぞれ個人プロダクションを結成して館主連盟と関係を結び、双ヶ丘撮影所を使用。 8月 日本活動常設館館主連盟映画配給社が崩壊すると、千恵プロと寛プロは連盟脱退を表明、独立プロは次々と解散。中根龍太郎プロ従業員は全員松竹下加茂へ入社。
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1929 |
1月 千恵プロは嵯峨野撮影所へ移転、早速新作に着手。嵐寛寿郎は、東亜キネマ等持院撮影所へ入社、山中貞雄が脚本を担当。 「武井竜三プロダクション」が使用した後、撮影所は一旦閉鎖。 |
1931
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8月 嵐寛寿郎が東亜キネマから独立し、帝キネ(9月「新興キネマ」に改称)と提携して第二次「嵐寛プロダクション」再興。第一作目として仁科熊彦監督で『都一番風流男』を製作。他、山中貞雄監督の『抱寝の長脇差』など計六本の作品を製作。 |
1932 |
入江たか子が「入江プロダクション」を創設。寛プロのステージ横にステージを建設、製作を開始(35年まで使用)。 |
1935 |
新興キネマがトーキー専用スタジオとして、36年まで使用。 12月 「松竹第二撮影所」と名称変更。嵐寛プロが右京区太秦面影町に「嵐寛寿郎プロダクション撮影所」を建設し、そこへ移転。 |
1936 |
市川右太衛門プロダクションが奈良市外あやめ池遊園地内の撮影所からここへ移転。またこの年から1943年頃まで、松竹下加茂撮影所の補助的撮影所として使用される。 |
1945 |
立石電気(現・オムロン)の工場となる。 |
1950 |
11月 高村将嗣(正次)が「宝プロダクション」創立。 |
1951 |
宝プロが立石電機工場敷地内の一部を借り、時代劇を専門に製作、加藤泰監督が『剣難女難
女心流転の巻』(新東宝配給)で劇映画デビューする。 |
1953 |
宝プロが太秦安井池田町に「宝プロ撮影所」を建設し、そこへ移転。→双ヶ丘撮影所閉鎖。
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2000 |
9月 敷地がオムロンから市住宅供給公社に引き渡され、住宅地へ。
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