京都映像文化デジタル・アーカイヴ マキノ・プロジェクト

 

 

二条城('10-'12)

法華堂('12-'18)

大将軍('18-'28)

等持院('19-'33)

御室('25-'35)

東映('25-)

大映('27-'86)

双ヶ丘('28-'53)

千恵プロ('29-'42)

 

J.O('33-'41)

第一映画('35-'42)

寛プロ('35-'50)

松竹('35-)

宝プロ('53-'87)

日本電波('62-'67)

下加茂('23-'74)

千本座 / 神泉苑

東洋現像所

 

 

  双ヶ丘撮影所

略地図

参考文献

 

 マキノプロから独立した片岡千恵蔵、嵐寛寿郎らが「日本活動常設館館主連盟映画配給社」に支援され、それぞれプロダクションを設立。山口俊雄プロ、中根竜太郎喜劇プロ、市川小文治歌舞伎映画プロ、山本礼三郎プロとともに「日本映画プロダクション連盟」を結成。この撮影所を使用し、製作を開始するものの、館主連盟の崩壊等によりやがて解散。 ここでは、稲垣浩、伊丹万作、山中貞雄らが監督デビューした。また、日活から独立した入江たか子プロダクションもここで『滝の白糸』を製作し、人気を高めた。
 1945年に、立石電気(現オムロン)の工場の敷地となってからも、宝プロがその敷地の一角を借り、時代劇映画を製作するなど、数々の独立・小規模プロダクションの映画製作を支える役割を果たした。
 現在は市住宅供給公社の敷地となり、工場が取り壊され住宅用地となっている。撮影所近くには、かつては伊藤大輔の大邸宅もあったが、現在はその跡地にいくつもの民家が建っている。

1928

3月 三共社社長の山崎徳次郎に共鳴した、大道具主任河合広始とキャメラマンの田中十三がマキノを退社し、貸スタジオとして双ヶ丘撮影所を設立、「日本キネマ撮影所」として使用開始。
4月 山崎徳次郎が全国の常設館主に呼びかけ、自主的な制作・配給・興行の確立を目的とする「日本活動常設館館主連盟映画配給社」を大阪に創設。この構想に乗った、片岡千恵蔵、嵐長三郎(寛寿郎)などのマキノのスターがマキノプロを脱退、それぞれ個人プロダクションを結成して館主連盟と関係を結び、双ヶ丘撮影所を使用。
8月 日本活動常設館館主連盟映画配給社が崩壊すると、千恵プロと寛プロは連盟脱退を表明、独立プロは次々と解散。中根龍太郎プロ従業員は全員松竹下加茂へ入社。

1929

1月 千恵プロは嵯峨野撮影所へ移転、早速新作に着手。嵐寛寿郎は、東亜キネマ等持院撮影所へ入社、山中貞雄が脚本を担当。
「武井竜三プロダクション」が使用した後、撮影所は一旦閉鎖。

1931

8月 嵐寛寿郎が東亜キネマから独立し、帝キネ(9月「新興キネマ」に改称)と提携して第二次「嵐寛プロダクション」再興。第一作目として仁科熊彦監督で『都一番風流男』を製作。他、山中貞雄監督の『抱寝の長脇差』など計六本の作品を製作。

1932

入江たか子が「入江プロダクション」を創設。寛プロのステージ横にステージを建設、製作を開始(35年まで使用)。

1935

新興キネマがトーキー専用スタジオとして、36年まで使用。
12月 「松竹第二撮影所」と名称変更。嵐寛プロが右京区太秦面影町に「嵐寛寿郎プロダクション撮影所」を建設し、そこへ移転。

1936

市川右太衛門プロダクションが奈良市外あやめ池遊園地内の撮影所からここへ移転。またこの年から1943年頃まで、松竹下加茂撮影所の補助的撮影所として使用される。

1945

立石電気(現・オムロン)の工場となる。

1950

11月 高村将嗣(正次)が「宝プロダクション」創立。

1951

宝プロが立石電機工場敷地内の一部を借り、時代劇を専門に製作、加藤泰監督が『剣難女難 女心流転の巻』(新東宝配給)で劇映画デビューする。

1953

宝プロが太秦安井池田町に「宝プロ撮影所」を建設し、そこへ移転。→双ヶ丘撮影所閉鎖。

2000

9月 敷地がオムロンから市住宅供給公社に引き渡され、住宅地へ。

執筆者 荻野正人+紙屋牧子+大矢敦子

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