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戦前からの映画人で戦後も映画製作や俳優養成の 「えくらん社」を創立し、清水宏監督作『明日は日本晴れ』や豊田四郎監督作『白鳥は悲しからずや』を製作した松本常保が、1959年、 えくらん社と同じ太秦多藪町に「日本電波映画株式会社」を設立。映画・舞台・テレビの広告代理や、映画・テレビ・ラジオ・演劇などの企画・製作・配給をうたい、1962年4月に専用撮影所を、蚕の社駅そばの太秦井戸ヶ尻町に完成した。それがこの日本電波映画撮影所である。
主にTV映画を中心とした撮影所だったが、当時の映画年鑑に載っている完成記事を見ると、約300坪の社屋で、1階がステージ、2階は録音ステージ、3階に事務所があり、常時4本のクランクが可能だったそうだ。隣接地に約200坪のステージ1棟とオープンの増設も計画しており、のちには亀岡に第二撮影所をもつほどの隆盛をきわめた。
映画の地・太秦で、映画からTVへと人々の嗜好が変化していく時代を見据えた撮影所であったが、現在その痕跡はなく、跡地は小道の入り組んだ静かな住宅地になっている。
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1948
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7月 松本常保、映画製作・芸能配給の「えくらん社」を創設。 |
1959 |
11月 日本電波映画株式会社が太秦多藪町に設立される。
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1961
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日本電波作品の『矢車剣之助』『琴姫七変化』などTV映画が人気を呼ぶ。監督の久見田彰造は、戦前から日活で活躍していた久見田喬二。
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1967
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撮影所閉鎖。
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