京都映像文化デジタル・アーカイヴ マキノ・プロジェクト

 

 

二条城('10-'12)

法華堂('12-'18)

大将軍('18-'28)

等持院('19-'33)

御室('25-'35)

東映('25-)

大映('27-'86)

双ヶ丘('28-'53)

千恵プロ('29-'42)

 

J.O('33-'41)

第一映画('35-'42)

寛プロ('35-'50)

松竹('35-)

宝プロ('53-'87)

日本電波('62-'67)

下加茂('23-'74)

千本座 / 神泉苑

東洋現像所

 

 

  大将軍撮影所

略地図

参考文献

 

 法華堂にあった日活関西撮影所が、北区大将軍(たいしょうぐん)一条町に移転したもの。1917年の台風による打撃が直接の移転原因と言われるが、関西撮影所建設と共に周辺に道ができ、関係者用の借家も建ち、小火をよく起こしたため、周りの寺から苦情が出ていたらしい。新しい大将軍撮影所周辺は当初は畑であり、一条通に民家が点在していた。
 一説によると、当初の約1500坪の敷地内に、ステージ1棟、俳優部屋、事務所、現像所の4棟があった。また日活社史によれば、移転当時のステージは140坪,事務所,現像所,馬屋までいれて総計6棟,地代工費ともに6万円。ステージの大きさは間口10間,奥行14間,高さ30尺で,天井はガラス張り,3杯のセットが同時に建てられていたらしい。関東大震災後はその影響で東京の向島撮影所現代劇部門もここに移転。ステージも2棟に増え、敷地は約2900坪になった。
 尾上松之助が撮影所所長を務め、時代劇が作られる一方で、東京から来た溝口健二や村田実らが監督する現代劇も意欲的に製作された。現在は、この撮影所跡地である仁和寺街道の北側一帯には民家が立ち並ぶ。

1918

3月 「日活関西撮影所」から大将軍へ移転。

1919

牧野省三、日活を離れミカド商会を設立するが結局日活に買収され、牧野は大将軍に引き戻される。

1921

10月 牧野、等持院境内にスタジオを建て日活から独立。牧野教育映画製作所を設立。

1923

9月 関東大震災。
11月 震災の影響で、東京・日活向島撮影所が京都・大将軍撮影所へ移転。時代劇、現代劇ともに京都で製作されるようになる。

1926

9月 尾上松之助逝去。社葬が執り行われ、葬列は堀川丸太町の自宅から大将軍撮影所まで続いた。沿道には20万人が詰めかけ、号外まで出された。 後に活躍する、伊藤大輔、大河内伝次郎らが日活に入社。

1927

当時の日本最大規模である日活太秦撮影所の造成開始。スタッフ、俳優らが徐々に大将軍撮影所から太秦撮影所へ移動。
伊藤大輔監督、大河内伝次郎主演の「忠次旅日記」三部作が空前の名声を挙げる。現在に至るまで不朽の傑作と言われ続ける。

1928

4月 日活太秦撮影所への移転完了。

執筆者 遠藤雅子+紙屋牧子+大矢敦子

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