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総合

東海道五十三対 浜松の駅

【翻刻】

平重衡卿西海の合戦に打ちまけとらはれとなりて

鎌倉へ下りたまふとき池田の宿に泊りたまふに

熊野侍従出て宗成卿に一懇せられしを

思ひなつかしくて琴弾歌うたひて労を慰めける


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【題材】

この絵は平家物語巻十「海道下り」を題材にして描かれたものであると考えられる。 一谷の合戦で敗れた平重衡は、頼朝の意向で鎌倉へ下向することとなった。 その道中に、池田宿(現在の静岡県磐田市)という宿駅に泊まることになった 重衡一行は、そこで池田宿の長者熊野の娘侍従に出会う。 重衡を見た侍従は、 「旅の空はにふのこやのいぶせさに故郷いかにこひしかるらむ」 (旅先でこのような粗末な小屋に宿られますと憂うつなお気持ちのままにどんなにか故郷の 都が恋しいことでございましょう)という歌を重衡に送る。 それを聞き、その振舞い、和歌に感心した重衡は、 「故郷もこひしくもなしたびのそらみやこもつひのすみ家ならねば」 (故郷も格別に恋しいとも思いません。旅先で宿るこの「はにふのこや」も都も 所詮永遠の住居ではないのですから) という歌を返した。


【池田宿】

鎌倉期から見える宿命。東海道の宿駅で、天竜川の渡河地点にあたり、また池田荘の中心でもあることから、 同荘荘官の居住地などが発達し、平安末期から繁栄を見せていたと思われる。


【池田宿を利用した人々】

源頼朝らを討伐のため京を発った平維盛軍は、治承4年(1180)10月7日当宿に着いている(「源平盛衰記」)。 また、重衡が池田宿を利用した翌文治元年(1185)、5月には同じく捕らえられた平宗盛が当宿に泊って侍従と和歌の贈答をし、翌朝天竜川を渡っている(「源平盛衰記」)。建久元年(1190)12月21日には京都より鎌倉へ帰る途中の源頼朝(「吾妻鏡」)、貞応2年(1223)4月12日には京より鎌倉へ下る途中の「海道記」の作者が当宿を通過している。 嘉禎4年(1238)10月21日上洛する途中の頼経、寛元4年(1246)7月18日上洛途中の将軍頼経(「吾妻鏡」)、建長4年(1252)将軍となるため鎌倉へ下向する宗尊親王(「吾妻鏡」、「宗尊親王鎌倉御下向記」)、文永3年(1266)将軍職を追われて京都に帰る途中の宗親親王らが当宿を通っている。元徳3年(1331)7月六波羅に捕らえられた日野俊基は、鎌倉に護送される途中当宿に泊り、平重衡と長者の娘との故事を思い浮かべて涙している(「太平記」)。


【平家物語諸本】

「平家物語」の原本は現存しないが、鎌倉中期の1230年ごろから約10年の間(ほぼ四条天皇の時代)にその原型ができあがったと推定されている。その初期の段階から複数の人物が関与して生成されたとみられ、かつ数次にわたって改作や加筆が行なわれ、今日に伝わっている。そのような生成の事情を反映して、「平家物語」には膨大な諸本が存在する。その要因については、かつては琵琶法師の語りによってテクストが変容し、流動したと考えるのが一般的であった。しかし近年の研究では、必ずしも琵琶法師の語りのみによるものではなく、書承によっても多様なヴァリエーションの派生することが指摘されている。そして、後次的に生まれた異本同士の間でも影響関係があり、さらなる異本が生まれた。 「平家物語」の諸本は、大きく語り本系読み本系とに分けられる。語り本系を増補したのが読み本系なのか、逆に、読み本系を簡略化したのが語り本系なのか、その経緯は明確になっていない。数次にわたる相互の交渉があったと考えられている。また、研究が進捗すればするほど、系統相互、伝本相互の交渉や影響関係が明らかになってきており、以前ほどには両系統の区分は意識されなくなりつつある。


【池田宿での和歌贈答説話における疑問点】

池田宿での和歌贈答説話について調べてゆくうちに、池田宿の遊君と和歌のやりとりをした人物が、文献によって異なっていることがわかった。 延慶本では平重衡、長門本・源平盛衰記では平宗盛が、遊君と和歌のやりとりをした人物として描かれている。 また、和歌贈答の相手である遊君も、文献によって熊野と描かれていたり、熊野の娘侍従と描かれていたりする。 このことについて、冨倉徳次郎氏は『平家物語研究』の中で、以下のように述べている。


…すなわち、池田の宿の遊君の間には、早くから海道下りする平氏の貴公子との和歌贈答説話が伝っていたのである。それは侍従(あるいは熊野)と重衡との間の事としても伝えられたが、また一方侍従と宗盛との間の事としても伝えられていたのであろう。その前者が「闘諍録」「延慶本」「屋代本」などに伝えられ、後者が「長門本」「源平盛衰記」に伝えられたのである。しかしまた別に「いかんせん」の名歌説話も伝えられており、まずこれを単に紹介の意味で、きわめて合理的に採択したのが「闘諍録」であったと考えてよいと思う。しかしこの和歌については母を思っての和歌としての説話が残っているので、その点を考慮して採択したのが、「四部合戦状本」なのであろう。もっともその際には、その侍従の相手としては、土地の伝承によって、「勧修寺内大臣」なるものを記したのである。ところが、それでも「いかにせん」の和歌説話は決してこの重衡東下りに溶け込んだ話とならないので、やがてここに虚構を加えて、これを宗盛と結びつけようとしたのが、「南都本」「覚一本」等に見える姿なのである。おそらくそれは侍従の和歌贈答説話が、一方宗盛との関連でも伝えられているところからの虚構であったと思う。しかもその場合、語りもの系では熊野と伝えられているが、これを読み物系の伝える「侍従」にきりかえ、侍従について、その出自を「長者熊野の娘」であるという形で、熊野の名をも残そうとしたのであろう。(謡曲「熊野」は、この「南都本」「覚一本」系の説話に取材したのだが、それが「侍従」の名を無視しているのは、その意味で当然なのである。)


―この絵の題材として取り上げるべき場面は、どの文献に描かれているのだろうか?

この絵の翻刻は、遊君熊野が宗盛との思い出を懐かしみ、重衡に歌や琴を振る舞い彼を癒した、という文脈である。 これを読むと、熊野が先に出会ったのは宗盛だと読み取ることができる。熊野と宗盛の和歌贈答の場面が描かれている長門本、源平盛衰記を見ると、熊野と宗盛の和歌贈答よりも、重衡の関東下向の方が先に描かれている。さらに、関東下向の際に歌などで重衡をもてなし、身の回りの世話をしたのは熊野ではなく千手前という女性となっている。つまり、重衡と熊野が出会う場面が描かれていないのである。 そう考えると、翻刻の解釈の仕方を少し変えてでも(「海道下り」で重衡が和歌贈答をしたのは侍従となっているが、熊野とその娘侍従の矛盾は上記に述べたとおりである。さらに、翻刻に「和歌贈答」というような言葉が書かれていないからといって、和歌贈答をしていないとは限らない。「歌」という記述もあるので、読みようによっては和歌贈答をしたとも読み取れる。)、平家物語「海道下り」をこの絵の題材として取り上げるべきだと考えた。


【考察】

この絵をみると、熊野が描かれている色とりどりの華やかな面と、重衡一向が描かれている、熊野に比べると質素な印象を受ける面とで構成されていることがわかる。翻刻通りにこの絵を描くならば、熊野の華やかさで、傷心の重衡を慰め癒していることがわかるような明るい色調にするか、反対に、重衡の諦めの心を汲んで、静かで落ち着いた色調にするのが自然なのではないか。明るい色調にせよ暗い色調にせよ、熊野と重衡が一緒にいる場面を描くのが自然なのではないか。 しかし、この絵では熊野と重衡は同じ空気を共有していない。おなじ空間にいるのだけれど、両者の持つ雰囲気はまったく異なっている。それは、この絵では平家物語の主題「無常観」を表しているからではないか、と考える。有名な「祇園精舎の鐘のこゑ…」という平家物語の冒頭部分は、「盛者必衰」「無常観」―存在するものが同じ場所にとどまりえないこと―を表している。戦いに敗れ敵方に捕われ、死の覚悟をしなければならない道中の重衡と、宿駅の遊女熊野を区別して描くことによって、栄華を誇った平家も、同じ場所には留まりえない―たけき者もつひにはほろびる―ことを暗示しているのではないだろうか。 また、先にも述べたように、池田宿はさまざまな背景を持ったさまざまな人物に利用されている。討伐のために、将軍になるために鎌倉へ向かう道中であった人物や、将軍職を追われて、また重衡のように戦で捕らえられ護送される道中であった人物も大勢いる。宿駅の遊君は、数え切れない人々を見て、何を思っただろうか。目的達成のために意気揚々とした者や、反対に死の覚悟をし諦めた者、まったく異なる想いを抱き、大勢の人物がこの宿に泊まった。池田宿のそのような背景も、無常観を呈しているといえるのではないだろうか。そこで今一度「海道下り」を読むと、重衡の詠んだ「故郷もこひしくもなしたびのそらみやこもつひのすみ家ならねば」という歌からも、華やかな都も、粗末な小屋も、永遠の住家にはなり得ないという無常観が読み取れることに気づく。 ここからは私の主観的な考えであるが、熊野の着物に描かれている花は、平家物語冒頭部分に登場する沙羅双樹の花であるようにも見える。もしそうだとしたら、この絵が無常観を表現しているということの大きな根拠のひとつになるはずである。 ちなみに、池田宿も、戦国期にはその跡が残るのみで、宿駅の機能は失われ、次第に衰退したものとされている。

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沙羅双樹




参考

平家物語全注釈 下巻(一) 冨倉徳次郎 昭和42年12月20日 角川書店

平家物語 下 栃木孝惟 市古貞次 小田切進 昭和62年7月1日 ほるぷ出版

平家物語研究 冨倉徳次郎 昭和39年11月20日 角川書店

日本歴史地名大系第22巻 静岡県の地名 下中直人 2000年10月25日 平凡社

角川日本地名大辞典 22静岡県 竹内理三 昭和57年10月8日 角川書店

日本女性人名辞典 芳賀登 一番ヶ瀬康子 中蔦邦 祖田浩一 1993年6月25日  ㈱日本図書センター

架空人名辞典 日本編 教育社歴史言語研究室 教育者 1989年8月30日

日本国語大辞典 第二版 第十三巻 小学館

没年 日本史人物事典 下中直人 2002年4月24日 平凡社

図説 花と樹の大事典 木村陽二郎 植物文化研究会・雅麗 1996年2月15日 柏書房株式会社

源平盛衰記(四) 美濃部重克 松尾葦江 平成6年10月25日 三弥井書店

完訳 源平盛衰記 四・八 石黒吉次郎 2005年10月30日 勉誠出版  

全釈 吾妻鏡 第四巻 貴志正造 昭和52年4月10日 新人物往来社

太平記 上 大曽根章介 松尾葦江 市古貞次 小田切進 昭和61年9月1日 ほるぷ出版

平家物語ハンドブック 小林保治 2007年2月25日 三省堂

平家物語を知る事典 日下力 鈴木彰 出口久徳 2005年5月30日 東京堂出版