平維盛

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重盛の子。1180年源頼朝の挙兵に際し、追討大将軍となるが富士川の戦で敗走。尾張に源行家を討ち、 砺波山の戦では源義仲に敗れ、のち平家一族とともに西走。以後不明。たいらのこれもり


画題

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解説

画題辞典

「これもり」(維盛)を見よ。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

平維盛、世に桜梅少将といふ、重盛の嫡子で仁安中、美濃権守となり、尋で右少将に任じ承安二年中宮権亮を兼ね従四位下に叙せられた、維盛容姿優美を以て聞え、安元中、後白河法皇五十の御賀に際し、青海波を舞つたが見るもの皆恍惚として 桜梅少将と呼ぶに至つた、既にして源頼朝の兵を東国に挙ぐるや、追討使となり、富士川に陣した処、頼朝の部将武田信義、夜陣後から其営を襲うた、平氏の軍水鳥の立つを見て夜襲と驚き、先を争つて敗走した、維盛還つて勢多に至り、軍状を奏したが、清盛大に怒つて京都に入るを許さず、維盛怖れて夜ひそかに京に入り藤原忠綱の家に留まる、翌年叔父重衡と共に源行家を尾張州股に敗り、尋で右中将に転じ蔵人頭に補せられ従三位に叙せられた。寿永二年兵十万を率ゐて木曽義仲を討つたが砺波山の戦に大敗し、京に帰り、宗盛等の一族安徳天皇を奉じて西海に走るや、維盛またこれに従つたが、その末路は詳かでなく、平家物語に依れば屋島を逃れて高野山に入り剃髪し更に熊野に落ち、寿永三年三月廿八日、那智の海に投じたといふ。行年二十七歳、その熊野落は『平家物語』の名文に依つて絵のやうに描かれてゐる。その章を引く。

     維盛熊野詣同入水

漸うさし給共、日数歴れば岩田河にも懸給けり、此川の流を一度も渡る者は、悪業煩悩無始の罪障消る者をと、憑敷うぞ覚ける、本宮に参り証誠殿の御前にて、暫く法施参せて、御山の体を拝給に、心も詞も及ばれず、大悲擁護の霞は、熊野山に靉靆き、霊験無双の神明は音無河に跡を垂る、一乗修行の岸には感応の月曇もなく、六根懺悔の庭には忘想の露も結ばず、何れも/\憑からずと云事なし、夜深け人静て、啓白し給に父の大臣の、此御前にて、命を召して後世を扶け給へと被申ける事までも思召出て哀也『本地阿弥陀如来にておはしまし、摂取不捨の本願誤たず、浄土へ導給へ』と被申ける、中にも『故郷に留置し妻子安穏に』と被祈けるこそ悲しけれ、浮世を厭ひ真の道に入給へど妄執は猶尽ずと覚て哀なりし事どもなり。

明ぬれば、本宮より舟に乗り新宮へぞ被参ける、神蔵を拝み給に、巌松高く聳て嵐妄想の夢を破り、流水清く流て浪塵埃の垢を洗らん共覚たり、明日の社伏拝み、佐野の松原さし過て、那智の御山に参給ふ、三重に漲落る滝の水、数千丈まで打上り、観音の霊像は岩の上に顕れて、補陀落山とも謂つべし、霞のそこには、法華読誦の声聞ゆ霊鷲山共可申、抑権現当山に跡を垂させまし/\てより以降、我朝の貴賎上下運歩、傾首、合掌て無不関利生、僧侶されば並甍、道俗連袖、寛和の夏の比、花山法皇、十善の帝位を逃させ給て、九品浄刹を行せ給けん御庵室の旧跡には、昔を忍ぶと覚えて老木の桜ぞ開にける。

那智籠の僧共の中に、此三位中将を能々奉見知と覚えて、同行に語けるは『爰なる修業者を如何なるやらんと思たれば、小松大臣殿の御嫡子、三位中将殿にておはしけるぞや、あの殿の未だ四位の少将と聞え給し安元の春の比、法住寺殿にて五十の御賀ありしに。父小松殿は内大臣の左大将にてまします、伯父宗盛卿は中納言右大将にて階下に著座せられたり、其外三位の中将知盛、頭中将重衡以下、一門の人々今日を晴と時めき給て垣代に立給し中より、此三位の中将殿、桜の花を簪頭て青海波を舞ていでられたりしかば露に媚たる花の御姿、風に翻る舞の袖、地を照し天も耀く許也、女院より関白殿を御使として、御衣をかけられしかば、父の大臣座をたち、是を給て右の肩にかけ院を拝し奉り給ふ、面目類少うぞ見えし、かたへの殿上人も如何許羨敷被思けん、内裏の女房達の中には、深山木の中の楊梅とこそ覚ゆれなど言れ給し人ぞかし、唯今大臣の大将待かけ給へる人とこそ奉見しに、今日はかく疲れ果給へる御有様、兼は不思寄をや、移れば替る世の習とは乍云、哀なる御事哉』とて袖を顔に推当て、さめ/゙\と泣ければ、幾等も並居たる那智籠りの僧共も、みなうち衣の袖をぞ濡りける。

三つ御山の参詣無事故遂給しかば、浜宮と申王子の御前より、一葉の船に棹さして、万里の蒼海に浮給、遥の沖に山成の島と云ふ所あり、それに船を漕寄せさせ、岸に上り、大なる松の木を削て中将銘跡を被書付『祖父太政大臣平朝臣清盛公法名浄海、親父内大臣左大将重盛法名浄蓮、其子三位中将維盛法名浮円、生年二十七歳、寿永三年三月廿八日那智の奥にて入水す』と書附て、又舟に乗り、奥へぞ漕出給、思切たる道なれども今はの時に成ぬれば、心細う無不悲、比は三月廿八日の事なれば、海路遥にに霞渡り哀を催す類也、唯大方の春だにも暮行空は懶きに、況や今日を限の事なれば、さこそは心細かりけめ、沖の釣船の浪に消入る様に覚ゆるが、有繋沈も不果を見給にも、御身の上とやおぼしけん、己が一行引連て今はと帰る雁がねの、越路を差て啼行も、故郷へ言伝せまほしく、蘇武が胡国の恨迄思ひ残せるくまもなし、『さればこは何事ぞや、猶妄執の尽ぬにこそ』と思返して西に向て手を合せ念仏し給ふ心の中にも、『既に只今を限りとは都に争か知べきなれば、風の便の音信も今や/\とこそ待んずらめ、終には隠有まじければ此世に無者と聞て如何計悲まん』など思続て念仏を留めて合掌を乱り、聖に向て宣けるは『哀人の身に妻子と云ふ者をば持つまじかりける者哉、此世にて物を思はするのみならず、後生菩提の妨と成ける口惜さよ、唯今も思出候ぞや、加様の事を心中に残せば罪深からん間、懺悔するなり』とぞ宣ける、聖も哀に覚けれども『我さへ心弱ては叶はじ』と思、涙を押拭ひ、さらぬ体にもて成て申けるは『誠にさこそは被思食候らめ、あはれ高きも賎きも恩愛の道は思ひ切れぬ事にて候也、中にも夫妻は一夜の枕を並るも、五百生の宿縁と申候へば、前世の契不浅、生者必滅、会者定離は、浮世の習ひにて候也、末の露本の雫のためしあれば、縦遅速の不同はありとも、後れ先だつ御別れ終に無てしもや候べき、彼驪山宮の秋の夕の契も、終には心を摧く端となり、甘泉殿の生前の恩も終なきにしも非ず、松子梅生生涯恨あり、等覚十地猶生死の掟に随ふ、縦君長生の楽に誇給共、此御嘆は逃させ不可給、縦百年の齢を保たせ給共此御別は唯同事と思召さるべし、第六天の魔王と云ふ外道は欲界の六天を皆我物と領して、中にも此界の衆生の生死を離るゝ事をかなしみ、或は妻となり、或は夫と成て是を妨ぐるに三世の諸仏は一切衆生を一子の如くに思召て、極楽浄土の不退の地に勧入とし給に、妻子と云者が無始曠劫より以降、生死に流転するきづななるが故に、仏は重う戒しめ給也、さればとて御心弱う不可思召、源氏の先祖伊予入道頼義は勅命に依て奥州の夷安倍貞任宗任を責んとて、十二年が間に人の頸を斬る事一万六千余人、其外山野の獣、江河の鱗、其命を絶つ事幾千万と云ふ数を不知、さればとて絡焉の時、一念の菩提心を発せしに依て往生の素懐を遂給ひたりとこそ承れ。就中出家の功徳莫大なれば、先世の罪障皆滅び給ぬらん、縦有人七宝の塔を立事、高さ三十三天に至る共、一日の出家の功徳には不可及、縦又百千歳の間百羅漢を供養したらん功徳も一日の出家の功徳には不可及と被説たり、罪深かりし頼義も心の猛き故に往生を遂ぐ、申さんや、君はさせる御罪業もましまさざるらんに、などか浄土へ参り不可給、其上当山権現は、本地阿弥陀如来にて在ます、始め無三悪趣の願より終り得三法忍の願に至る迄、一々の誓願衆生化度の願ならずと云ふ事なし、中にも第十八の願には設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚と被説たれば、一念十念の憑有り、唯此教を深く信じて努々疑をなし給ふべからず、無二の懇念を致して若は十反、若は一反も唱へ給ふ物ならば、弥陀如来、六十万億那由多恒河沙の御身を縮め丈六八尺の御形にて観音勢至、無数の聖衆、化仏菩薩、百重千重に囲繞し、伎楽歌詠して唯今極楽の東門を出でて来迎し給はんずれば、御身こそ蒼海の底に沈むと思召とも、紫雲の上にのぼり給ふべし、成仏得脱して悟を開き給なば、娑婆の故郷に立帰て、妻子を引導き給はん事『還来穢国度人天』少しも不可有疑』とて鐘打鳴して念仏を奉勧、中将可然善知識と思召し忽に妄念を翻へして西に向ひ手を合せ、高声にて念仏百返計唱つゝ『南無』と唱ふ声共に海へぞとび入り給ける、与三兵衛入道も石童丸も同く御名を唱へつゝ続いて海へぞ入りにける。

此の維盛を画ける作二三左の通り、

中村岳陵筆  『維盛高野の巻』  第三回院展出品

前田青邨筆  『維盛熊野の巻』  第五回院展出品

小堀鞆音筆  『維盛哀別』    村上華雲氏蔵

同      『同』       九条公爵家蔵

植中直斎筆  『高野の維盛』   第九回帝展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)