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2007年02月23日

●八百屋お七

『役者全書』(安永三年)には
「○八百屋お七
夫より享保三戌年春市村座にて三条勘太郎相つとむ。是先代喜世追善とてせしゆへに、かの喜世三が紋「封じ文」を付たり。此節又々はんじやうす。是よりしぜんと封文をお七が紋のやうになりし也。三ヶ津共に是を付る。されバ喜世三をお七の開山とし、勘太郎を中興の祖とす。」
とある。
また、
『役者名物袖日記』(明和八年)には
「右丸のうちに封文の紋ハ、古人嵐喜代三といふ女がたの定紋なり。面色うるはしくて上手なりしと。初て八百屋お七の娘がたにて殊の外の大あたりを取、それより名ヲあらはし、今もつてお七の役をする女がたハ此紋を付る。今ハお七が紋になりしとなり。」
とある。

歌舞伎年表にも初演時の記録がある。

●正月、大阪、嵐三右衛門座、初狂言「女大臣職人鏡」。江口(喜世三郎)……(杉山平八)。瀧岡彦右衛門の実事。
切、「お七歌祭文」。吾妻三八作。八百屋お七(喜世三郎)小姓高安吉三郎(平八)旦那寺の住持(春山源七)伯父高安惣左衛門(小佐川重右衛門)異見してお七吉三郎と縁を切る。
杉山平八は此の吉三に大当りをして「上上」の位に進む。京では山下いつきといふ若衆方。元服して山下文左衛門といひ、下阪して杉山の養子となり平八と改む。(『歌舞伎年表』宝永三(1706)年)


・嵐喜世三郎(初代)
?~正徳三年(1713)
元禄十年(1697)二代目嵐三右衛門抱えの門人となる。
宝永四年に江戸に下る。
宝永六年(1709)秋暇乞として中村座「八百屋お七」のお七役で大好評。
特に傾城役とと濡事が得意。
女方・濡事の開山といわれた。

→八百屋お七の逸話が歌舞伎の取り込まれ歌舞伎化されたのは宝永三年であった。この時嵐喜世三郎が初めて八百屋お七を演じた。
この後江戸でも八百屋お七を演じ大当たりをとっている。

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