Z0688-1-002

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和漢百物語 「貞信公」

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【翻刻】

時平公の御舎弟にて忠直聡明

の人をなりければ日を遭って極官に

登庸したまい勢ひかたを並ぶる者

なし或る夜南殿の御帳の辺りを

過ぎたまふに妖しの鬼忽然と現れ出

太刀の鐺をむんずと取を刀を抜て

切掃えば姿は消て失けるとぞ

墨塘了古筆記


絵師:芳年

落款印章::一魁斎芳年画

改印:丑六改(慶応元年<1865>)

版元:ツキヂ大金

【題材】

『大鏡』「太政大臣忠平 貞信公」

《内容》

忠平が醍醐天皇か朱雀天皇の頃、宣旨を受け、そのことを執り行う為に、紫辰殿の御帳台の後ろを通ろうとすると、何者かがいるかのような気がし、太刀の鐺をつかまれ、奇妙だと思い探ってみると、毛むくじゃらの手で、爪は長く、刀の刃のようだったので鬼だと気づく。忠平は恐ろしいと思うが、おじけついた様子をみせてはならないと思い、「天命の勅命をいただき、その公事の評定のために参る者をつかまえるとは何者だ。もしその手を離さぬと、身のためになるまいぞ」といい、太刀を引き抜き、その者の手を捕まえると、鬼はうろたえ手を離し、鬼門の東北への隅の方へ逃げて行ってしまった。

《引用文献》 『新編日本古典文学全集34 大鏡』


和漢百物語内では、鬼に鐺を掴まれそうな場面が描かれている。


藤原忠平

880~949 平安時代中期の政治家。

元慶4年(880)誕生。藤原基経の四男、母は人康親王女。

寛平七年(895)正五位下で出身、累進して昌泰三年(900)参議となったがすぐに叔父清経に譲った。延喜八年(908)参議に還任、翌九年兄左大臣時平が没すると、兄仲平を超えて権中納言、氏長者となったが、宇多法皇や妹の隠子の後援が大きかったらしい。右大将ほか多くの要職を兼ね、中納言を経て同十一年大納言に赴任、右大臣源光に次ぐ政権の第二位に進出した。同十三年光が没し、翌年右大臣。以後長く右大臣兼左大臣として政権を掌握し、延長二年(924)左大臣に転じた。同八年醍醐天皇没し、皇子の幼帝朱雀天皇即位により摂政。承平六年(936)太政大臣に任じて翌七年天皇元服の加冠を勤め、天慶四年(941)摂政を辞し関白となる。同九年朱雀天皇は弟村上天皇に譲位するが引き続き関白となり天暦三年(949)八月十四日没。七十歳。諡は貞信公。当時子の実頼・師輔が左・右大臣であった。彼の生涯は顕栄を極めたが、彼の時代に承平・天慶の乱が起こるなど中央政府の衰退が目立つ。しかし近年忠平政権下で地方官の権限を強め、租税収取を請け負わせるなど現実に即応した体制への転換が行われた点が注目されている。また摂関政治の形式が定着したのも彼の時であり、貴族政治の基盤ともいえる宮廷儀礼も彼によって集成され実頼・師輔に継承された。

『大鏡』の続きには、貞信公は月足らずの7ヶ月で誕生したと伝えられている。

聖徳太子や空海は12カ月で生まれ、常人と異なりあがめられてきたが、月足らずの誕生はどのように受け止められてきたかは不明である。

《引用文献》『国史大辞典第十二巻』



代表的な日本の妖怪。視覚的に造形化されたものとしては、民間の年中行事として追儀される節分の鬼に表象されるように、二本の獣角をもち、大きく裂けた口と威嚇的に見ひたいた眼によって特色的表情をなしている。さらには筋骨たくましい裸形に、虎皮の褌をしているのが定形になっているが、これはウシトラの方角を「鬼門」として忌んだ生活習慣が、一種の語呂合わせ的発想のなかでつくり出した牛角・虎褌像であるともいわれている。

鬼説話が大きく浮上してくるのは藤原氏によって開かれた摂関政治の体制が定着してゆく時代で、専制の貴族をおびやかす力として、闇に乗じて出現する。初めは、宮中に鬼の足跡とおぼしきものが残されていたり、群馬の物音がひびいたりするだけだが、しだいに御灯油を奪ったりし始め、『大鏡』は太政大臣忠平が「毛はむくむくとおたる手の、爪ながく刀の刃のやうなる」ものに、太刀のいしづきをむんずと掴まれたという話を載せている。こうした闇のなかの鬼が、その姿をしだいにあらわしていくのは、摂関体制の護り手として武人が台頭する時期と重なり、いわば、近似の力を持った者どうしの葛藤が生まれ、鬼退治説話の時代が開幕する。

《引用文献》『日本伝奇伝説大事典』



【J・スティーブンソン氏による解説】

①貞信公(藤原忠平)は平安時代の有名な大臣であった。

②彼の有名な伝説には鬼に出会い鞘を掴まれるが払いのける、と大鏡に記されている。

③絵画において彼の衣服黒に黒のプリント がされ、袴は青色のぼかしが用いられている。

④笏と冠は中国、唐の様式に忠実に倣っている。

⑤芳年の想像・表現、幽霊は国芳や北斎と異なる。

新形三十六怪撰で同じ題材を扱うが、鬼は不気味さが減り、貞信公の顔は西洋人のようである。


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⇒和漢百物語と新形三十六怪撰での比較

・忠平の出立ちが、 後姿/正面

・忠平の顔立ちが、 無表情/勇ましい

・鬼に鞘を、 狙われている/掴まれ、振り払おうとする

・鬼が、 小さい/忠平とほぼ等身で描かれている



【忠平の出立ちについて】

『【カラー版】浮世絵の歴史』によると、忠平の立ち姿は菊池容斎『前賢故実』巻五(天保7年<1836>)に描かれた忠平の姿から引用していると記述がされている。

後姿や冠、笏の構え方を見ると一目瞭然だろう。

『前賢故実』に描かれている571人の殆どは、絵姿に表されたのは初めてのばかりの者である。その為、容斎は知らない人物をイメージして描かなければならなかった。 そこで書物を読み漁ることで人物のイメージを作り、身の周りにいる人々にポーズをさせて写実性のある人物を描いたのである。しかし描かれた人物は当時の人に過ぎないので、その時代の衣服や装身具を身に着けさせなければならない。その際もまた、古器旧物探索を行い、それらをスケッチし、作品に活かしたようである。このようにして、『前賢故実』は人物の写生と時代考証をふまえた歴史人物画であり、有職故実の教科書として位置づけられ、後の者たちに影響を与えてきたのだろう。

芳年もそのうちの一人で、容斎に私淑したことがこの作品からも伺うことが出来るだろう。

《参考文献》「歴史画のつくりかた 菊池容斎の『前賢故実』」/『【カラー版】浮世絵の歴史』


【まとめ】

・藤原忠平を描いた作品は数えるほどしかなく、鬼との対峙に至っては芳年の作品のみである。

芳年は私淑していた容斎の『前賢故実』から「藤原忠平公」を倣い、そこに『大鏡』の伝説を当てはめたのだろう。


・鬼の対峙を描いた作品は芳年の<和漢百物語>と<新形三十六怪撰>のみであるが、何故2度に渡り同じ題材を用いたのだろうか。

2枚は同じ題材ではあるが、違う場面が描かれている。

<和漢百物語>では、忠平はこれから迫り来る鬼の存在には気付いておらず、前を向いて歩いている。それに対し<新形三十六怪撰>では、鬼に襲われたところを退治しようとしている様子で描かれており、この2枚から時間経過していることが分かる。

また、<新形三十六怪撰>の忠平は鬼を振り払おうと厳めしい顔をしており、忠平の勇敢な様がわかるだろう。

以上のことから、<和漢百物語>では忠平がこれから襲われるかもしれない恐怖感を、<新形三十六怪撰>では鬼に立ち向かおうとする忠平の豪胆ぶりを支軸にして描かれているのではないだろうか。結果として、この2枚で『大鏡』の忠平伝説を網羅することが出来るという仕組みになり、それまで殆ど描かれなかった忠平を芳年は注目させようとしたのではないだろうか。

【参考・引用文献】

・『新編日本古典文学全集34 大鏡』 橘健二 加藤静子 小学館 平成8年年6月

・『浮世絵大事典 国際浮世絵学会』 東京道出版 平成20年6月

・『日本伝奇伝説大事典』 角川書店 昭和61年9月

・『【カラー版】浮世絵の歴史』 小林忠 美術社出版 平成10年5月

・「歴史画のつくりかた 菊池容斎の『前賢故実』」 塩谷純

 「is」85巻 ポーラ文化研究所 平成13年3月

・『浮世絵のことば案内』 田辺昌子 小学館 平成17年11月

・『原色 浮世絵大百科事典 第三巻 様式・彫摺・版元』 原色浮世絵大百科事典編集委員会 大修館書店、昭和57年年四月

・『国史大辞典第十二巻』国史大辞典編集委員会 吉川弘文館 平成3年6月

・『中国古代服装参考資料』北京燕山出版

・『前賢故実』故菊池武保 明治36年7月 東京書房