藤原忠平

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総合

政治家として有名な忠平だが、百人一首には忠平による歌がある。


小倉山峰のもみぢ葉

心あらば今ひとたびの

みゆき待たなむ


(小倉山のもみじ葉よ)

(もし心があるならば)

(もう一度みゆみ、御門の御幸があるその日まで散らずに待っていてくれよ)




【参考文献】 『百人一首必携 特装版』久保田淳 学燈社 平成5年ふじわら ただひら


画題

画像(Open)


解説

前賢故実

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七、八歳の頃より聡明で機敏な方で会った。累進して左大臣となった。兄の時平が延喜格式を編纂していたが、完成する前に亡くなった。忠平は時平の遺志を受継ぎ、延喜格式を完成させた。朱雀天皇が即位した後、忠平に万機を委ねるという詔を下した。從一位を叙せられ、牛車で上東門までの出入りを許され、まもなく太政大臣を拝した。天慶二年、準三后の位を授かれ、輦車に乗って宮中への出入りを許された。同四年、摂政から関白へと改めた。天暦三年八月薨去、享年七十歳。詔により正一位を贈られ、信濃公に追封され、貞信と謚された。忠平は思いやりがあって慈愛の心を持っていたため、亡くなると朝廷内外の人々はたいへん惜しいと歎いた。忠平の邸宅の近くに宗像神社があり、神社を通る度に忠平は必ず下車していた。ある日の夕方頃、神が忠平の夢に現れ、「位が低い」と言い出し、礼儀を尽してきた忠平を辱めた。これに堪えられず、忠平は奏請して正一位への昇進を望んだ。また、道真が時平に陥れられた時、若かった忠平は道真との関係がよかった。道真が太宰府へ飛ばされて後も、忠平から道真への進物は絶えたことがなかった。このように忠平の度量は広くて清らかであった。

君がため いはふこころの ふかければ ひじりのみよの あとならへとぞ

(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

ていしんこう「貞信公」の項を見よ。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)