1925
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3月 等持院撮影所が火事に見舞われ、グラス・ステージ1棟炎上。 6月 マキノ省三が東亜から独立し、「マキノプロダクション」を設立。
花園天授ヶ丘(天授ヶ岡町)に撮影所を建設。予定地近くの平野小学校改築によって、旧校舎の古材を払い下げることができたため、短期間で撮影所が完成。マキノプロが去った後の等持院撮影所は東亜キネマ京都撮影所となる。 7月 阪東妻三郎がマキノプロを退社し、独立プロダクションを設立。
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1926 |
3月 脚本家山上伊太郎がマキノプロへ入社し、『闇の森』を製作。 10月 省三の長男、マキノ正博(正唯)が『青い眼の人形』で脚本・監督デビュー。以降、マキノ正博=山上伊太郎コンビが誕生。
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1928
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3月 マキノ省三の50歳を記念して『忠魂義烈
実録忠臣蔵』を製作するが、北野の自宅で編集作業中に出火し、ネガの大半を焼失し、自宅も全焼。『忠魂義烈
実録忠臣蔵』は焼け残ったフィルムを編集して公開。急遽、併映作品としてマキノ正博監督で『間者』を製作。 4月 マキノの四国配給を引き受けていた三共社社長の山崎徳次郎が「日本活動常設館館主連盟映画配給社」を創設し、片岡千恵蔵、嵐長三郎(寛寿郎)などのマキノのスター50余人が大量に脱退。それを支援する館主連盟が、双ヶ丘撮影所に独立プロダクションを設立し、マキノに大打撃を与える。スター不在のなか、マキノ正博監督、山上伊太郎脚本による『浪人街
第一話 美しき獲物』が、1928年度キネマ旬報ベストテン1位となる。
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1929 |
6月 他社に先駆け、マキノ正博監督による初の国産ディスク式オールトーキー作品『戻橋』を発表。省三はその音質に満足せず、トーキー製作の意欲喪失。結局、計5本でディスク式オールトーキー作品の製作を中止。この頃から、省三は完全に病床につく。 7月 マキノ省三死去(50歳)。
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1930 |
マキノプロの財産状況が困難に陥る。給料の遅配・不払が相次ぎ、撮影所所員たちは組合を結成。 12月 マキノプロがストライキ体勢へ。正博はストライキ側につき、代表取締役の母・知世子と弟・満男らと争う。マキノ関東社の坂間好之助が仲介者となり、映画製作の再開の目処がたつ。
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1931 |
1月 マキノプロの撮影・配給権を従業員側に譲渡してようやく撮影は再開されたが、再び給料不払の事態となり、争議は悪化。 5月 「新マキノ映画株式会社」創立となるが、業務が開始されないまま俳優たちが続々と退社。 8月 最後まで残ったマキノ智子(輝子)、沢村国太郎夫妻、滝沢英輔監督らが東活映画社へ入社。 10月 新マキノ映画株式会社が解散。直木三十五らの協力により、マキノ省三の長女・冨栄の夫、高村正次(正嗣)が大衆文芸映画社を設立。
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1932 |
2月 大衆文芸映画社の高村正次と立花良介がマキノ家と提携。大衆文芸映画社の従業員にマキノプロの残党を加え、御室撮影所内に「正映マキノキネマ」を設立、マキノ省三夫人の知世子が所長に就任するが(撮影所名「正映マキノ撮影所」)、原因不明の出火により撮影所は全焼。焼け跡にバラックを建て、マキノ正博監督で『二番手赤穂浪士』ほか3本を製作するものの、配給網不確立のまま資金難に陥り、わずか2ヵ月で正映マキノは解散。 4月 日活が、上記『二番手赤穂浪士』を買い取り、その売り上げ金を従業員たちの解散手当とした。 11月 東活映画社の社長を辞任した南喜三郎と高村正次が、宝塚キネマ興行株式会社を創設し、買収した東亜キネマと東活、正映マキノの残党を吸収。宝塚キネマ撮影所と改称し、映画製作に着手。
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1933 |
7月 宝塚キネマが営業不振のため給料を支給できず、経営者側と従業員側とが対決。9月までは製作を続けるが、経営は更に悪化。 |
1934 |
2月 宝塚キネマが解散。 9月 田中伊助主宰のエトナ映画社が撮影所を使用、エトナ映画京都撮影所と改称し映画製作を開始。宝塚キネマから後藤岱山、稲葉蛟児ら監督や、高木新平らが所属。宣伝部長には都村健が就任。
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1935 |
エトナ映画社は計9本の映画を製作するが、業績が振るわず、4月エトナ映画社が解散し、エトナ映画京都撮影所は閉鎖。
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