1925 |
9月 阪東妻三郎プロダクション設立、第1回作品『異人娘と武士』(井上金太郎監督)を自由配給(マキノプロ配給)。 11月 寿々喜多呂九平脚本の『雄呂血』(石野誠三監督、阪妻プロ奈良作品)公開。 12月 『魔保露志』(志波西果監督、阪妻プロ奈良作品)封切後、阪妻プロは松竹と契約し、奈良から京都・松竹下加茂撮影所に移る。
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1926
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5月 「阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所」が開所(太秦蜂ヶ丘)され、阪妻プロは下加茂撮影所から本拠地に移る。 9月 アメリカのユニヴァーサル日本支社が阪妻と接触し、契約提携。「阪妻立花ユニヴァーサル聯合会社」とし、アメリカの技術を得て作品制作される。太秦撮影所では、阪妻の時代劇の他に現代映画と阪妻不出演の時代劇を作る。
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1927 |
大日本ユニヴァーサル映画配給会社は、松竹に独占されていた阪妻主演作品を扱えないため、提携を解約。 |
1930 |
7月 阪妻作品の人気が低迷し、阪妻は待遇を理由に松竹に辞表を提出。「大日本(東洋)自由映画プロダクション」創立宣言をして失踪し、機能しなくなった阪東妻三郎太秦撮影所は、松竹太秦撮影所に名称変更。帝国キネマが長瀬スタジオ焼失のため移転し、帝国キネマ太秦撮影所となる。 |
1931 |
帝国キネマの代行会社として新興キネマ株式会社創立、「新興キネマ太秦撮影所」となった。 1月 阪妻は京成電鉄の出資により、千葉県谷津海岸にスタジオを建設し、2月に大日本(東洋)自由映画プロダクションを創立。
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1933 |
6月 入江たか子の人気を決定的なものにした『滝の白糸』(溝口健二監督、入江たか子プロ・新興キネマ太秦)封切られる。 |
1935 |
2月 伊丹万作が千恵蔵プロから新興キネマへ移籍し、初のトーキー作品『忠次売り出す』(伊丹万作監督、新興キネマ太秦)を制作。 5月 阪東妻三郎プロダクション、谷津スタジオと負債抱えて新興キネマに吸収される。
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1936 |
12月 阪妻プロ解散。阪妻は大谷竹次郎の要請により日活に入社。 |
1937 |
2月 『佐賀怪猫伝』(木藤茂監督、新興キネマ太秦)封切、大ヒット。 |
1939 |
10月 『狸御殿』(木村恵吾監督、新興キネマ太秦)封切。 |
1942 |
1月 大日本映画製作株式会社(大映)が新興キネマ、大都映画、日活製作部門を合併して創立。製作会社の再統合で松竹、東宝、そして大映の三社に。撮影所は大映第二撮影所となる。 |
1947 |
7月 戦後の映画館ブームに乗り、東急電鉄の巨額な資本バックにした「東横映画株式会社」は当初東急沿線にスタジオを建設するつもりだったが実現せず、大映と提携し、「京都太秦大映第二撮影所」を大映から借り、「東横映画撮影所」とする。ここで製作された作品の配給は全て大映に任された。 10月 吉本興行の林弘高が独立プロのために貸しスタジオとして東京の大泉に「大泉スタジオ」を創立。 12月 千恵蔵の十八番となった金田一耕助初登場の『三本指の男』(松田定次監督)封切。
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1949 |
10月 松竹、東宝、大映に対し、毎週2本づつ東横映画と大泉映画の作品を自由配給する「東京映画配給株式会社」を設立。大泉スタジオは完全自主制作に転換される。 11月 東映第1回配給作品の千恵蔵主演『獄門島』(松田定次監督)封切。
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1950 |
6月 興行的にも成功した『(日本戦歿学生の手記)きけわだつみの声』(関川秀雄監督)封切。 8月 大泉スタジオ、自主制作を中止し、貸スタジオに戻る。
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1951 |
1月 東横は東宝と配給提携。 2月 東京配給株式会社社長として大川博が就任。 4月
大泉スタジオと東横を東京映画配給に合併し、3社のトラストを成立させ、大川博社長で「東映株式会社」を新たに発足。同年「東映京都撮影所」に名称変更。 9月 「日本動画株式会社」が「日動映画株式会社」として新発足。
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1953 |
7月 阪東妻三郎死去(51歳)。 9月 松竹、東宝、大映、東映、新東宝は俳優の引き抜き防止を目的とする五社協定を発表。 |
1954 |
1月 東映、二本立て興行を開始。 4月 『笛吹童子』(萩原遼監督)で中村錦之助、東千代之助らがスターに。
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1955 |
1月 東映は『新諸国物語
紅孔雀』(萩原遼監督)五部作の成功で二本立て興行を定着。日動映画を買収し「東映動画株式会社」とする。 |
1956 |
テレビ対策としてフランス製のシネパノラミック方式を採用し、これを東映スコープと命名。第1回作品として『鳳城の花嫁』(松田定次監督)を制作。 1月 東映動画、新スタジオ竣工。 5月 東映動画第1回作品『こねこのらくがき』(藪下泰次演出)公開。
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1958 |
10月 東映動画、9ヶ月の制作日数経て日本初長編漫画『白蛇伝』(藪下泰次演出)完成。 |
1960 |
3月 東映、新たな配給系統の社内に「第二東映」発足し配給開始。従来の東映作品より娯楽性を重視し、若手の俳優を起用した。 |
1962 |
東映、『人生劇場・飛車角』(沢島忠監督)成功し、やくざ路線開拓。 |
1971 |
8月 大川博社長(74)死去。岡田茂(前常務取締役京都撮影所所長)が社長就任。 |
1973 |
深作欣二監督の『仁義なき戦い』シリーズがヒットし、実録路線に。 |
1975 |
9月 東映京都スタジオ設立。 11月 敷地西側に江戸時代の町並みを再現させ、多くのオープンセットの中で実際に撮影現場を見学出来るといった特色をもつ「東映太秦映画村」をつくり、現在に至る。
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