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日活の前身である横田商会は、日露戦争が終結し記録映画人気に陰りが見え出したため、劇映画の制作が急務になった。だが、横田商会には演出に精通した人材が不足しており、1908年に映画興行で利用していた千本座の座長の牧野省三に協力を求めた。牧野が芝居に精通した人物であり、なおかつ千本座の役者をそのまま使える利点があったからである。牧野は期待どおり原作設定から演出・監督までその才能をいかんなく発揮した。 劇映画制作が軌道に乗った横田商会は、1910年に京都初の撮影所を二条城・西南櫓の西側、京都市中京区智恵光院通り押小路(現在の中京区西ノ京北聖町)に建設する。当時、一帯は一面の田地であった。敷地面積は約300坪で板敷の舞台に開閉自由の天幕を張り、背景は全て書き割りの簡素なつくりであった。役者達は近くの民家で着替えや化粧をして舞台に上がったという。またこの土地は、京都の侠客・千本組の笹井三左衛門の所有地であったが、牧野の義父が三左衛門の兄弟分であった縁で横田商会に貸し出されたものであるとされる。
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1908
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6月 横田商会が福井繁一を起用し、横田商会初の劇映画『いもりの黒焼き』(喜劇俳優鶴屋団十郎一座が出演)を公開する。 9月 横田商会の依頼による、後に“日本映画の父”と称される牧野省三の初作品『本能寺合戦(太閤記の本能寺)』(京都・本能寺にて撮影)が公開され好評を博す。それまで映画制作の主導権はカメラマンにあったのだが、これ以降、映画制作は監督主導のもとで行われるようになる。 |
1909 |
10月 横田商会が、牧野がスカウトし後に“目玉の松っちゃん”として日本映画初のスター俳優となる尾上松之助の主演第一回作品『碁盤忠信(源氏礎)』を公開。ここに省三・松之助コンビが誕生する。身軽さが売りであった尾上による躍動感溢れる演技は大評判になり、これ以降、牧野は尾上を主役に次々とヒット作を制作する。
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1910
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1月 3作目の尾上主演作品『石山軍記』が公開される。この時、観客から「目玉!」などの掛け声が起ったことが契機となり“目玉の松っちゃん”の愛称が生まれた。 7月 横田商会が二条城西南櫓の西側に、京都初であり、吉沢商店の東京・目黒、Mパテーの東京・大久保、福宝堂の東京・日暮里に続く日本で4番目の撮影所を建設。しかし実際には野外撮影が多く舞台はあまり使用されなかったようである。当時は名称がなかったが、後に二条城撮影所と呼ばれるようになる。 10月 撮影所開きに、初めての全通し版(以前に各場面ごとに公開されていた)である『忠臣蔵』を公開する(『忠臣蔵』は現在、不完全ながらも観覧が可能である)。
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1912 |
1月 横田商会が撮影所を法華堂撮影所に遷し二条城撮影所を閉鎖。
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