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NEWS LETTER
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【ISSUE.005】
知能エンターテインメント研究室の活動紹介
京都の映画が描いた「日本」像
 本COEでは、京都の文化や芸術をさまざまな方面から研究し、日本の文化の発信地でありつづけている秘密を探ろうとしている。
 江戸時代に最も庶民の間で愛された絵画は、浮世絵である。しかし、浮世絵版画の生産地が京都にもあったというと、ほとんどの人が驚きの表情を見せるだろう。
 世界が体験したメディア革命の一つが「出版技術」の発明であろうが、江戸時代は、その出版技術が実用化されて、情報伝達環境がそれ以前の時代とは各段に変化した時代である。その出版技術を担っていたのが京都であり、日本における商業出版活動は京都から始るといってよい。したがって、浮世絵版画を生産する技術は、もちろん京都は持っていたし、版本の中に入る挿絵を描く絵師もいた。江戸に菱川師宣が顕れて以降、浮世絵版画の中心は、江戸と認識され、お江戸名物の特産品として位置づけられる。
しかし一方で、吉田半兵衛や西川祐信といった著名な絵師が京都を中心として活動しており、特に西川祐信は、のちに「錦絵」を生み出す鈴木春信や同時期の江戸の石川豊信らにも大きな影響を与えている。けっしてその存在は無視できない。西川祐信は、一枚摺の版画よりも絵本、とくに風俗絵本の分野で大きな成果を遺していて、それがために"美術史"分野では正当な評価がいまだされていないものと思われる。
 西川祐信でさえ、そのレベルであるから、他の京都の浮世絵師については、推して量るべしであり、長期にわたる「文化・芸術の時代」たる江戸時代の京都の絵画史は、再検討が待たれるわけである。


現在、本COEでは、京都に関する資料を積極的に蒐集し、その歴史の空白の部分を埋めるべく作業をすすめているところである。なかでも、京都の風景・名所絵、風俗画、役者絵は、世界的なコレクションとして認識されるようになってきた。
 現在、アート・リサーチセンターには、3千枚を越える浮世絵版画があるが、上方絵、あるいはOSAKA PRINTSと呼ばれる大坂・京都で制作出版された浮世絵が500点以上もあり、コレクションの特徴の一つとなっている。なかでも、京都で発達した「合羽摺」作品は、約160点所蔵しており、現在知られているこのジャンルのコレクションとしては、世界最大規模である。
 合羽摺とは、版画の着色にあたって、着色したい部分を切抜いて穴をあけた渋紙を型紙としてあてがい、その上から刷毛で色を塗る技法である。渋紙は水をはじくから型紙を「合羽」と呼ぶ。馬連で擦りつけていないから色は乗り具合は柔らかく、見た目に非常に素朴なもので、かつ廉価に制作できたはずである。
 合羽摺の版画は、現在でも大津絵の制作などに使われているポピュラーな物であり、長崎絵や、双六・地図などにも事例がみられるが、錦絵を生んだ江戸では浮世絵の着色のためには使われなかったものらしい。後には、大阪でも制作されるようになる。役者絵や美人画、縁起物の風俗画、あるいは風景画も存在している。大阪では、同じ歌舞伎の舞台をあつかった作品が錦絵と合羽摺の両方で残っているものもある。
 さて、廉価に制作できるとなれば、それだけに「使い捨て」の扱いを受ける場合が多く、現在に伝わっている作品は錦絵作品などにくらべると極めて少ない。板木でつける硬質な彩色に対して、刷毛の撫でつけによる軟弱な着色技法は、見た目にも"豪華さ"乏しく、そのためもあって、あまり注目されてこなかったものである。しかしながら、その制作数は相当に多く、京阪では、合羽摺版画は非常にポピュラーなものであったのである。

研究史としては、上方浮世絵研究の出発点となる黒田源次著『上方絵一覧』(昭和4年)で早くに言及されていながら、ながらく美術史や浮世絵研究の分野で取上げられることがなかった。1990年代の半ば以降、上方絵研究で長く唯一の日本人研究者であり第一人者であった松平進氏によって上方絵の図録化の動きが活発になり、まず、早稲大学演劇博物館の『前期上方絵』のなかで、79枚の合羽摺作品が紹介されたのをきっかけにして、松平氏による論文が発表されることになった。そして、それを受けて2002年には、阪急学園池田文庫で『合羽摺の世界』展覧会を実施し、同時に所蔵品図録を編集している。これ以前には、合羽摺をまとまって収録した図録は存在していなかったのである。ただし、筆者も、古書展等では、まれに一枚摺の摺物や錦絵の把の中に混じって 「合羽摺」版画をみることができたので、現在も市場に出回っていることは確かなのである。
 池田文庫の展覧会の翌年、2003年になって、個人コレクターの中出明文氏が『私の上方絵物語 合羽摺編』という労作を上梓されて、自身のコレクションを紹介した美しい図版とその文章により、これまでの研究を前進されたのである。
 こうして、合羽摺版画は、現在ではある程度まとまってみられるようになったのであるが、それでも池田文庫が、全部で81枚、中出コレクションは103枚の版画作品を掲載しているにすぎない。海外では、ボストン美術館が106枚の作品を所蔵しており、公開が待たれるところである。その他、神戸市立博物館にも価値の高い作品が数十点収蔵されており注目できる。なお、中出コレクションは、版本も数点紹介しているのが貴重である。
 
合羽摺に描かれたジャンルでは、中出コレクションやボストン美術館は、美人画が多く、池田文庫はほとんどが役者絵、演劇博物館も役者絵が多い。
 また、美人画で描かれる対象は、京都を中心とした浮世絵であるから、祇園の芸妓・舞妓ということになるのである。
 京都の一つの顔として「祇園」が大きな存在となって久しく、現在では、祇園を抜きにしては「京都らしさ」の多くを失ってしまう程になっている。江戸時代、遊郭としての島原が次第に衰えをみせ、祇園の役割が次第に大きなものとなっていったが、江戸時代の祇園の歴史については、実はあまり委しく調べられたことがない。しかし、中出コレクションやボストン美術館が所蔵する合羽摺は、祇園が一つの最盛期を迎える文化文政天保期のものであり、歴史の空白をビジュアルな資料として埋めるもので
ある。そして、それと同じ種類のものは、アート・リサーチセンターにも9枚所蔵されているのである。今回、その一枚を紹介してみよう。


図2に掲出するのは、「はる川画」の落款がある細判合羽摺である。退色しやすい絵の具の紫がまだ鮮やかに残っており、状態もよい。
 はる川は、「春川五七」と目される絵師で、最初江戸に住んでいたが、文化後半から京都に移り、祇園に居住して、天保2年(1831) に没したと伝えられている人物である。絵画的素養は、むしろ江戸で身につけたものと思われ、そのためか、顔の描写方法もそれまでの上方の絵師とはひと味ちがっている。板元は、山城屋佐兵衛と本屋吉兵衛の合板(共同出版)である。いずれも京都の板元であるが、山城屋は、「祇園蛸薬師東洞院東入」という住所までが判明している。
 さて、この作品のタイトルには、「祇園御輿はら ひねり物姿」とある。この「祇園御輿洗(はらい)」とは、祇園祭の一連の行事の一つで、山鉾巡行に先だって、現在では7月10日に八坂神社の三基ある御輿の内、少将井(せいしょうい)の神輿一基を運び、鴨川の水で清める儀式をいい、また、本祭のあとの28日に再び鴨川の水で清めて、拝殿に戻るのも同じく御輿洗と呼ばれている。
 この御輿洗の行事に合わせて、祇園では練物を出すのであるが、練物とは、いわば芸妓の仮装行列である。『都林泉名勝図絵』(寛政12年)の祇園の条には、


  (五月晦日)祇園鴨川の女伶妓婦の輩、風流に姿を優して花の
  盛の匂ふが如く、身には錦繍を絡ひ、あるは女も男の風俗に変
  り、若も老の形となり、前はやし後囃子に糸竹の音うるはしく、
  これを見んとて社頭二軒茶屋、薮の下、祇ぎ園をん町まちの群
  集は稲麻の如く、尺地の間もなかりける。
  又六月十八日も練物を出して群参晦日に異ならず


とあって、現在の山鉾巡業にも匹敵する大変な人気のイベントであったことがわかる(図3)。これに合せて、いわばブロマイドとして芸妓の姿絵を売り出したのである。
 さて、本作品の制作年月は、文化11年5月である。何故、ここまで特定できるのかというと、祇園練物には番付が出ており、前出、中出氏の著書と、田中緑紅氏著『祇園ねりもの』の掲出資料とによりそれらを知ることができる。最古の番付は、絵本としては宝暦12年、一枚摺のものでは文化10年のものが確認できている。この間にはその詳細を知る資料はなく、文化10年11年、文政3年・・・という具合で、全部の年度の内容を知るには至っていない。が、運良く、文化11年の資料と一致し、本図の練物が出た年が判明するのである。


この練物姿は、京井筒屋の今鶴という芸妓で、「宮木阿曽次郎」に扮している。この宮木阿曽次郎とは、『生写朝顔話』という人形浄瑠璃の作品に出てくる人物として知られている。 
宇治川での蛍狩のおり、秋月弓之介の娘深雪に心惹かれた阿曽次郎が「露のひぬまの朝顔に・・・」と書いた扇を渡したことがきっかけで、深雪は阿曽次郎に思いをよせている。その後、駒沢次郎左衛門と改名した阿曽次郎との間で縁談話がおきるがそれを知らない深雪は阿曽次郎への思いが断ち切れず、出奔する。その後大内家のお家騒動に巻込まれている阿曽次郎は、瞽女朝顔となっていた深雪に巡り会うが佞臣のために名乗り合うことができず、ようやくお家騒動が解決して、二人は結ばれるという筋である。
 これは、しかし人形浄瑠璃よりも先に、文化8年(1811)刊の読本『朝顔日記』でよく知られた物語となり、それをもとに文化11年正月大坂の角の芝居で「けいせい筑紫琴夫」として劇化され、大当たりを取った歌舞伎であった。その中で、阿曽次郎役は、当時のトップスター二代目嵐吉三郎が演じている。この芝居の大人気を当て込んで、このおなじ文化11年に練物の中で出されたものがこの作品であったことがわかる。手に持つ篭は蛍篭、短冊には、深雪へ送った「露のひぬまの……」の和歌が書き込まれているものだろう。
 今鶴という名の芸妓は、手許の資料でみると、天保6年(1835)に近江屋、天保7年には井上屋、天保11年には、桜井屋にみえるが、いずれも別人であろう。よく使われた名前であったと思われる。
 京井筒屋は、天保11年正月刊 「園のはな」によると富永町にあり、舞妓や義太夫の芸者も含めて総勢81名が連名で挙げられており、祇園を代表する揚屋であったことがわかる。
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「園のはな」は、『守貞謾稿』巻之21にその一部が紹介されており、祇園町の万屋安兵衛の部分のみ書写されているもので、国書総目録にも記載がない貴重な資料である。内題に「祇園六街芸妓名譜(ぎおんしんち げいこなよせ)」とあり、凡例には


    此書はふるくより全盛糸の音色あるは歌妓名鑑または最中の満月などいへる書つぎ/\にあり。
    されどわづか一紙に書つゞめたれば尽ことかたし


とあって、冊子体裁として名鑑を出した最初のものと宣言している。また、内題の肩には「毎月改正」ともみえ、この時以降毎月発行しようという意気込みがかんじられる。それだけでなく、その「追出目録」には、「下河原細見 真葛乃栄」、「祇園街同新地 園乃夜桜」、「西石垣細見 花乃追風」、「二条新地細見 川そひ柳」、「宮川細見 三よ世乃枕」、「北野細見 梅乃魁」などの書名が挙がっており、シリーズ化して発行していこうとしたものであることが伺われる。これだけの資料が実際に出版されていたとしたら、天保期の京都の花街に関する情報はどれだけ豊かになっていたか、想像を絶するものがある。
 しかしながら、祇園はもとより、他の新地についても、天保の改革により、天保13年(1842)から非官許の遊郭が禁止されたため、いったん廃れることになった。祇園で営業が許可されるのは、嘉永4年(1851)12月のことである。そのため、残念ながら江戸の吉原細見のように冊子の名鑑が定期的に刊行される機会を逸してしまったようである。

さて、もとの「練物姿」に戻ろう。このような祇園練物の浮世絵は、文化10年(1814)を上限として天保7年(1836)までのものが知られている。したがって、非常に限られた時代の出版物であったことがわかる。また、筆者の知る範囲でも、せいぜい200枚程度しか残存していないと思われるが、しかし当時は、なにしろ大量に売出されたものと思われるのである。その根拠となる興味深い現象を一つ紹介して、本稿を締めくくりたい。
 図5は、中出氏著書に紹介されている「練物姿」の一枚であるが、一目で図1と同様に京井筒屋の今鶴による宮木阿曽次郎を描いたものであることに気付かれるだろう。これと同板の作品はボストン美術館にもある。
 比較してもらえば明白なように、左右を反転させた図柄で、細かなところまで一致している。絵師も同じ「はる川」であるが、春川五七が両方の下絵を描いたというより、どちらか一方を描いて一枚の主板(墨線の板木)が完成し、それによって摺られたその墨摺版作品を裏返して版下として、左右反転した主版を作ったものと思われるのである。落款は、位置を変えて全く一致しているから、版下作成時に落款部分のみ切抜いて反転させずに貼り込んだものだろう。練物姿・出し物名の枠、和歌の囲みなどは、趣向を変えている。
最大の興味は、板元の違いで、2軒の板元の内、山城屋は共通しているものの、本屋吉兵衛が「京縄手 叶喜」に入れ代わっている点である。版権の問題はどのように解決したのだろうと興味は尽きないのであるが、いずれにせよ、少部数が流布していたとしたらこうした現象は起きようがない。
大量部数を、短期間で販売するために、同じ絵師の名で、複数板元の組み合わせの異なる作品が売りに出され、右向きがよいか左向きがよいかなどの違いによる選択の余地をつくって、バラエティに富んだ品揃えにすることを必要とした販売実態があったのである。
現在は、世界中を探しても総点数千点にも満たない作品群であるが、実際には、京都ではどの家にも数枚は所蔵されていたようなごくありふれた出版物であったのである。
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