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NEWS LETTER
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【ISSUE.004】
文化財のデジタル保存・モデリングおよびインタラクションシンポジウム
ゲームアーカイブの構築と活用に向けて

21世紀COEプログラムを遂行するうえで重視されているものの一つに、研究における国際的競争力の問題がある。「京都アート・エンタテインメント創成研究」の文系が担うコンテンツ研究は、これまで長い研究の蓄積があり、その研究に対する評価には、非常に高いものがあった。
ただしその研究が、国際的な視野のもとに維持・発展されてきたものであったかどうかとなると、まだ課題が残されているといわねばならないだろう。つまりそうした研究が、譬えていえば、国際的な眼に曝されてきたものであったのかどうかである。ここに日本の文化、あるいは京都文化に関心をもつ世界の研究者との、研究面における謙虚でそして真摯な連携の必要性が生じる理由がある。
「京都アート・エンタテインメント創成研究」が活動拠点をおくアート・リサーチセンターは、昨年度、イギリスのセインズベリ日本芸術・文化研究所と学術協定を結んだ。ロンドン大学SOAS助教授で、セインズベリ研究所のロンドン大学SOAS分室長でもあるジョン・カーペンター博士は、日本の文化・芸術を専門としており、「京都アート・エンタテインメント創成研究」の出発当初より、客員助教授として本プログラムの研究活動に関わっていた。したがってこの協定締結により、同研究所とは個人レベルだけではなく、組織としての協力関係もできあがったのである。
今回紹介するサブ・プロジェクト「Calligraphy and Court Culture in Premodern Japan」は、このセインズベリ日本芸術・文化研究所とのジョイントプログラムの一つであり、また「京都アート・エンタテインメント創成研究」が打ち出している5つの柱のなかの一つ「典籍・書籍・デジタル図書館」を構成するサブ・プロジェクトの一つであるが、ここにその活動の内容と課題などについて報告しておきたい。

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日本における書跡への関心は、すでに平安時代からみられる。それは和歌を中心とする古典への関心とともに深められていったといってよかろう。例えば平安時代中期の藤原定信が、自家の先祖である藤原俊成筆の『白楽天詩巻』などを買い求めたことなどは古い事例である。そうした関心が、一方では書風の確立と継承を促し、もう一方では、書の真贋の判定を行い発展させるようなっていった。書風については世尊寺流・青蓮院流、あるいは天皇の書風を表す宸翰様などが生み出され、真贋の判断については、室町時代になって、記録上にそのことが頻出するようになる。そしてついには、江戸時代初頭に、古筆家という、古筆鑑定を生業とする家の成立さえみるようなり、古筆家では真贋の基準を求めるべく『藻塩草』と呼ばれる、聖武天皇以来の著名な古筆切れを集めた手鑑が作られるようにさえなった。
以上のような日本における書の発達と書跡研究については、いまその足跡を詳述する余裕はないが、こうした真贋の判定こそが、いわば日本における書跡研究の足跡と重なるわけで、それは長い年月のなかで膨大な研究蓄積となっている。その代表的な研究書として、ここでは小松茂美著『日本書流全史』だけをあげておくことにしよう。
それはともかく、いまも述べたように「京都アート・エンタテインメント創成研究」のサブ・プロジェクトの一つ、「Calligraphy and Court Culture in Premodern Japan」は、セインズベリ日本芸術・文化研究所とのジョイントプログラムとして、ジョン・カーペンター博士とともに、日本の書跡のなかでも、とりわけ宸翰に関心をもってこれまで研究に取り組んできた。その理由は、宸翰、あるいは鎌倉時代後半から南北朝時代後半にかけての宸翰様と呼ばれるその書風は、どういった形で受け継がれてきたのか、またそれは果たして、代々の天皇によって忠実に受け継がれるものであったのかどうか、つまりは帝王学としてそうした書風は、践祚予定者に教育されるものであったのか。もしあったとすれば、それはどのようなシステムで行われたのか、等であった。こうした問題関心のもと、これまで月2〜3回のペースで研究会を積み重ねてきたのである。
 ここで一言付け加えておくと、カーペンター博士は、日本の書跡史に強い関心をもっており、ロンドン大学SOASにおいても、日本の書跡史を講じるだけではなく、解読の講義さえ行っている。そして2005年3月には、研究会で得た成果の一端を、ロンドン北東部のノーリッジ市にあるセインズベリ研究所で、宸翰を素材とした内容の講演を行った。およそ200名ほどの聴衆の大半は、同市の市民であったが、活発に出された質問の内容から考えると、参会した市民は、単に異国趣味といった皮相な捉え方ではなく、もっと根本的な文化の問題として、こうしたテーマに関心をもっていることを知ることができた。日本における書の問題は、極東の閉鎖された一地域のみで自己完結するだけの文化なのではなく、もっと普遍性をもった文化として捉え直す必要があることを痛感させられたのである。
ところで承知のように、在位中の天皇が書くさまざまな私的な書には、原則として署名はない。あるとすれば花押である。当時の人々にとって(少なくとも天皇の書を受け取ることができる人々にとって)、天皇の書風は周知のものであり、署名がないことによって、書かれたものは、逆に天皇の書であることを主張し、書として、あるいは文書としての権威を高めることになった。したがって天皇の書は、それをうけとった側において、外部に流出することのないよう、大切に保存されてきたはずである。しかしながら時代を経ると、何らかのメモでも残しておかない限り、署名のない書が、どの天皇の書であったのかどうか分からなくなる事態も生じる。そうなると、ある書がどの天皇の書であったのかを判断するためには、その書風や、所蔵者のなかで伝えられてきた伝承に依らなければならないことになる。しかしながら、書風とはいっても歴代の天皇が書いたものは、全てその書風が把握されているわけではないし、また歴代各天皇の書が、数的にも平均的に残されているわけではない。数多く残されている天皇の場合、書風の変遷によってその書が書かれた時期をある程度推定することはできるが、数が少ない天皇の場合、そうした変化を追跡することすら無理である。加えて、何々天皇書との伝承を百パーセント信頼できるのかどうかとなると、個々の天皇の書風を正確に把握し、判断を下すことがどうしても必要な作業となってくる。

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本サブ・プロジェクトでは、藤井永観文庫に所蔵される20数点に及ぶ宸翰を中心的な素材として用い、研究活動を行ってきたが、その所蔵品のなかに、国の重要文化財に指定されている「法華経要文和歌懐紙」(1巻)がある。「法華経要文」とは、法華経各品の大切な文章のことで、それに因んだ法楽の和歌を詠んだものが本懐紙である。「法華経要文和歌懐紙」と称されるものは、藤井永観文庫本のほか、妙満寺本・常照皇寺本・中村記念美術館本などが知られているが、藤井永観文庫本は、光厳天皇をはじめとして、広義門院・徽安門院・尊円親王など19名、23枚の懐紙が一巻とされたもので、1354年ころに作成されたものと推定されている。この懐紙については、1979年に発表された岩佐美代子氏による和歌史からの研究があるが、その巻物の冒頭に、光厳天皇の「和歌懐紙」がある。この光厳天皇和歌懐紙を事例の一つとして、伝承がもつあやうさについて、ふれておくことにしよう。
京都の大徳寺に、後醍醐天皇賛との伝承をもつ重要文化財「大燈国師像」がある。この後醍醐天皇賛については、明治以来、後醍醐天皇自筆のものであるのかどうか、意見の分かれるところであったが、昭和18年(1943)、赤松俊秀氏によって後醍醐説が否定され、明確に光厳天皇筆であることが主張された(「光厳天皇宸翰に就いてー大徳寺蔵伝後醍醐天皇宸賛大燈国師像の研究ー」『清閑』15冊)。赤松氏の判断となったのは、まずは書風であったが、光厳天皇宸翰の現存が少ないこともあり、赤松氏は妙満寺本「法華経要文和歌懐紙」など、少ない他の宸翰も参照しながら、慎重に考証を行い、以上のように結論づけたのである。しかし1985年4月に京都国立博物館で開催された特別展「大徳寺の名宝」では依然として後醍醐天皇賛説がとられている(同展覧会図録)、といった具合で、どの天皇の書と確定するのかは容易なことではない。
 藤井永観文庫所蔵品においても、伝来に混乱がみられるものが何点かある。例えば「伝後宇多天皇宸翰仮名消息」は、それを納める外箱・内箱に、後宇多天皇とともに伏見天皇宸翰との貼紙があったり、また「後花園天皇宸翰女房奉書」を納める箱裏には、後土御門天皇の墨書があるが、一方、中蓋には後花園天皇宸翰とある。こちらの場合は内容からいって後土御門天皇ではありえなく、さらにその後土御門天皇宸翰女房奉書は、後柏原天皇筆と伝えられていたが、それも書風、書かれた内容から、後土御門天皇と判断せざるをえない、といった具合である。
こうした伝承の混乱がなぜおこなったのか、その理由については先述したが、天皇の書風が比較的似通ったものであったことが、もう一つの原因として指摘できる。それが鎌倉時代後半から形づくられる宸翰様と、それを継承したその後の天皇の書、具体的には、15世紀半ばの後花園天皇当りから新たな書風が加味されていくといわれる書風である。宸翰様とその後の書風について、結論めいたことだけをここで指摘しておけば、それはけっして、代々の天皇によって、忠実に受け継がれていったものではなかったということだろう。ただ、父や祖父、あるいは曾祖父の書風を継承することはありうるし、現に、そうした形で、2、3代にわたり同系統の書風が継承されている例がみられる。後花園天皇・後土御門天皇・後柏原天皇や(図1、2参照)、江戸時代初期の後水尾天皇の書風と後西天皇・霊元天皇のそれが、きわめて近い書風であることなどが、そういった事例である。そのことを窺わせる史料として、京都御所東山御文庫に正親町天皇が孫の後陽成天皇に天皇としてのあるべき心構えを説いて与えたといわれる、「宸筆御覚書」(『宸翰英華』454号)がある。10カ条からなるその第一条に、
御手みまいらせ候へば、うつゝなき御てぶりにて候、たゞ勅筆(様)やうをあそばされ候べく候、陽光院へまいらせ候(唐)からのよりかゝりに、後柏原院みな/\のあそばされ候御てほんども御入候、よく/\それをならはせられ候べく候、 と、正親町天皇が陽光院(正親町天皇子、後陽成天皇父)や後柏原天皇の書を勉強するように指示している。一定期間、おそらくこうした形で、書風が受け継がれていったことは指摘できる。
しかし一方では、後陽成天皇と子の後水尾天皇の書風はまったく異なる。異なるという以上に、両者の書風は対極にあるといってよかろう。豪壮な後陽成天皇の書風に対し、繊細な後水尾天皇の書風、なのである(図3、4参照)。そこには、父後陽成天皇とけっして和解することのなかった後水尾天皇の、なんらかの思いがあったの かどうかについては、いまとなってはわからない。事実として両者の書風の相違を指摘し、例え天皇の書といえども、一つの型に定まった書風のみを継承するものではなかったことを確認しておくにとどめたい。


さて、いま話題としてきた財団法人藤井永観文庫は、2005年8月をもって財団の解散手続きがすべて終了し、所蔵品約420点は、立命館大学に寄贈された。これは「京都アート・エンタテインメント創成研究」の活動が、社会的にも評価された結果であると考えているが、同時に立命館大学は、文庫の資料研究と社会への還元だけではなく、これらをできる限り現状の姿を守って後世に伝えることなど、社会的な大きな責務も合わせて果たしていかなければならない。
サブ・プロジェクト「Calligraphy and Court Culture in Premodern Japan」では、これまで藤井永観文庫所蔵品のなかの宸翰や古筆について、一点一点、以上に述べてきたような検討を積み重ねてきた。まだ残されている課題も多いが、ともかくその成果を2005年12月1日よりアート・リサーチセンターにおいて展示することにした。テーマは「天皇の詩歌と消息ー宸翰にみる書式ー」。展示される宸翰は鎌倉時代後半の後深草天皇以後、幕末の孝明天皇まで、21名の天皇と28点の宸翰である。
また本サブ・プロジェクトでは、以上のような研究活動とともに、藤井永観文庫所蔵品のデジタル・アーカイブを行っているが、その作業のなかで資料を文字単位で分割し分析するシステムの構築も検討しており、展示では、その成果の一端も示すことができれば、とも考えている。そしてそれを含めて、以上に述べた展示内容については、図録の発行とホーム・ページによって公表すべく、現在その準備をすすめている。

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