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NEWS LETTER
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【ISSUE.005】
知能エンターテインメント研究室の活動紹介
京都の浮世絵 - 合羽摺版画・祇園練物 -

洛西撮影所街の形成につれて映画が新たな地場産業として定着した京都は、映画創出の場であるだけでなく、日本で初めて映画が映写され/によって映された都市でもある。稲畑勝太郎のシネマトグラフとともに来日したリュミエール社カメラマンのコンスタン・ジレルによって撮影された『家族の食事』などを筆頭に、京都は、いわゆる近代的視線を自らのうちに育みながら、映画を通して自らのイメージを全国・海外にむけて発信した都市といえる。
  本プロジェクトは、このような京都映画文化の生成過程と受容様態を明らかにすることを第一の目的とし、文化遺産として地域映画文化のアーカイヴ活動を推進することを第二の目的としている。研究対象は、日本映画の父と称される牧野省三のマキノ映画から、黒澤明の『羅生門』や溝口健二の作品を生みだした大映京都撮影所までを中心に据えており、プロジェクトの具体的な活動は以下、三つに大別される。  一つ目が研究基盤となる資料の収集と調査であり、この部門は地域連携の研究・教育の柱となっている。具体的には、フィルム(図1参照)や映画人所蔵の資料といったノン・フィルム・マテリアルは勿論、京都映画史に関わった京都在住映画人の制作談を中心としたオーラル・ヒストリーや、ロケーション情報の収集と記録映像化(図2参照)にも力を入れている。
  二つ目は、収蔵庫と連携したオリジナル資料の保存であり、カタロギング後に、閲覧利用や普及用のデジタル画像を作成し、アート・リサーチセンターの収蔵庫でマテリアル別に保存している。
  三つ目は研究成果の公開であり、デジタル・データはwebやビデオ、DVD、オリジナル資料は展覧会や上映会、講演会、シンポジウムなどで公開している。展覧会では、京都府京都文化博物館の開館15周年記念特別展『KYOTO映像フェスタ』(2003年)や、東京国立近代美術館フィルムセンターによる尾上松之助生誕130年記念展覧会『尾上松之助と時代劇スターの系譜』(2005年)、シンポジウムでは『映画文化の振興と保存 ―地域アーカイヴの試み―』(2003年)や、『よみがえる日本映画――映画復元の現在、フィルムとデジタルの融合』(2005年)、『よみがえる映画「三朝小唄」の記憶 ―地域文化と映画―』(2006年)などがあり、いずれも産官学連携の共同研究の成果として発表している。


  これらの活動をとおして明らかになったことは、個々の作品や撮影所の具体的な様相に加えて、マキノ映画から大映にいたる京都撮影所制作の映画が、ポジ/ネガ像の「日本」像を国内/国外にむけて形成していった、イメージ研究としての面白さである。
  たとえば、マキノ映画の『三朝小唄』(1929年)や『祇園小唄 絵日傘 舞ひの袖』(1930年)においては、近代的文明の欠落による地方の危機という視点と、都会と地方という相対化意識が導入されており、都会からの男性キャラクターと、物語の舞台となる地方の女性を鉄道で結び、帝都・東京への中心化を促す文化装置の様相を顕わにしているのである。また、これらの映画内で創造された都市・京都像は、東京のあわせ鏡として東京からの/に対する視線を内包した、都市の性格をも顕わにしている。
 一方で、同時代の欧米向け映画『武士道』(1925年)に目を向けると、欧米側の欲求に応える、すなわち近代的文明の欠落した異文化としての自文化を演出する日本=京都のセルフ・イメージが見て取れるのである。
 本稿では、このような点について、大正期の先駆的な合同映画『武士道』の背景とともに、ジャポニスムから連なる「日本」像を、日本映画が積極的に取り入れていったその様相について報告をし、今後の研究課題への足がかりとしたい。

 

『武士道』は、ドイツ人のハインツ・カール・ハイラント監督の個人プロダクションと、マキノ映画を吸収合併したばかりの東亜キネマが、合同で制作し、牧野省三撮影所所長が統括する東亜キネマ等持院撮影所において、1924年10月から1925年2月にかけて製作された劇映画である。合同製作の形態は、製作資金を半々ずつ出費したとされ、ハイラント監督と日本側の賀古残夢との共同監督方式をとった。監督以外のスタッフは、原作・脚色も含め、東亜キネマ等持院撮影所のメンバーが総がかりで担当し、ドイツ側スタッフが参加した形跡はみられない。この『武士道』の物語は、戦国時代のとある城下で出会った西洋人と日本人それぞれの若い男女の恋愛譚を軸に、鉄砲伝来にからめた武器、武士道、女性像などの、西洋と日本との異文化を浮き上がらせる構成になっている。
 この『武士道』の存在は、東京国立近代美術館フィルムセンターがロシアのフィルム・アーカイヴのゴス・フィルムフォンドでドイツ映画として所蔵されていたドイツ語字幕の『武士道』のフィルムを確認し、2004年に明らかになった。現在見ることのできる『武士道』は、ドイツ公開版と推察されるが、字幕以外はおおむね日本公開版と同様の構成と思われる。
全体を起承転結の四部構成に分析すると、各部の見せ場として、起部と承部は日本の風景と文化、転部は彦根城を舞台に日本の城を見せながら展開する活劇的合戦シーン、結部は日本の結婚式、が用意されている。日本の風景では、岩肌の荒々しい海岸、巨岩を配した日本庭園、池を配した日本庭園、草丈の長い雑木林、保津川、富士山、鎌倉・長谷の大仏、奈良公園、姫路城、彦根城、吉原遊郭などがあり、吉原以外はロケーション撮影されている。このような野性的で荒々しい自然景観と、西洋社会とは異なる日本の建造物が、隣接する城下内の空間として提示されている為、この『武士道』の物語空間の地理的な関係は完全に破綻しているが、『新しき土』と同様に、日本的景観の紹介目的は従前に果たしているといえるだろう。
 また、彦根城で撮影された大掛かりな合戦シーンでは、日本の城の狭い階段や襖、城壁、瓦屋根を活かしながら、マキノ映画特有の、高所と低所の上下空間を生身の身体が実際に移動する見世物的なアクションを満載している。字幕には、ジャポニスムの系統であるアール・ヌーボー調の草花を配したアート・タイトルが用いられている。
 これらの視覚的なモチーフは、映画以前に万国博覧会で日本的な記号として日本が出品したものであり、それらは、西洋の特徴とされる、近代的、文明的、合理的とは対照的な、前近代的、自然・野生的、保守的な世界として日本を再現したものである。


 この『武士道』の製作目的は、「日本の武士道と忠孝とを世界に紹介するため」 や「日本の風景と武士道を紹介するに最も適切なるものとして」 と報じられており、また、「輸出向きに作られた」 という表現を伴うことから、日本国内では市場を欧米に定めた日本宣伝映画として認識されていたと推察される。
当初から欧米への輸出を前提に制作された商業的劇映画という点では、日独防共協定調印と軌を一つにして親善目的で製作・公開された日独合作映画『新しき土』(1937年、アーノルド・ファンク+伊丹万作監督)はもとより、1926年に阪東妻三郎がユニバーサル社と提携して京都の太秦に設立した「阪妻・立花・ユニバーサル社」よりも早い試みであり、日本映画史においては先駆的な、いわゆる桃総ロ秤f画といえる。
この『武士道』がクランク・インされた1924年は、マキノ映画が『怪傑鷹』や『ロビンフッドの夢』(図4参照)などで、ダグラス・フェアバンクスに代表されるアメリカ映画のキャラクター設定やアクション・シーンを積極的に模倣・翻案し、日本映画の形式に欧米映画のそれを導入して、興行力を飛躍的に拡大した年である。翌1925年には、映画監督の村田實が自作『街の手品師』(日活)を持参して渡欧するなど、日本映画を欧米へ紹介する動きが起こっており、その逆に、欧米からの日本映画に対する視線も集まり初めていた。前述の阪妻・立花・ユニバーサルはその代表的な事例であり、等持院撮影所においても、『武士道』とは別の、ドイツ人俳優3人 が出演する現代劇映画『話』(衣笠貞之助監督)が撮影されている(図5参照)。この時期に、欧米の映画人が京都の撮影所に集まってきている点は興味深い事実である。
 このような動向から、当時の日本の志向として、映画を通して海外交流を促進するという目的のみならず、産業的に隆盛に向かった日本映画界が、映画的・興行的な価値に自信を抱くとともに、自国の作品評価を海外に問う試みを起こしたものと思われる。

 

『武士道』のこのような西洋にむけた日本イメージの源泉といえる、1867年のパリ万博は、ジャポニスムの契機ともなった万博であり、徳川政府が錦絵や工芸品などを出品しただけでなく、芸者を配した茶店も建造して来場客を接待した。また、明治新政府が参加した1873年のウィーン万博では、名古屋城の鯱や鎌倉の大仏の大型模型を出品し、鳥居、数奇屋風の茶室、神社、日本庭園を配した豪勢な日本館まで日本から大工を送り込んで作っている。以後の万博でも、平等院鳳凰堂や、法隆寺の金堂、金閣寺、東照宮などを模した建築を建て、それらには日本庭園や芸舞妓を配した茶室を併設しており、日本風庭園や建造物の空間構築を含めた立体的な具体像を、この時期に流通させたと思われる。
 もちろん万博以前にも欧米で受容された日本像は多く、ペリー来航以後は、各国の使節団に同行した画家やカメラマンが、紀行性や写実性、風刺性を帯びた図像を本国に送り、『パンチ』や『ロンドン・ニュース』、『イリュストラシオン』などのイラスト紙を通じて、多くの読者の手元に渡った。つまり万博では、西洋に於いて受容されていた日本イメージを、日本側が意識し、欧米人の関心に応える異文化像としての日本像を実像として提示したといえるだろう。
 日本イメージの一つの画題が、図像を少しずつ変えながら異なったメディアで再生産されていった例をあげるならば、髪を結う日本女性のモチーフがある。このモチーフは、先ず1873年の『イリュストラシオン』でジャポニスムのはしりとして紹介された、美術工芸品に囲まれて芸者に髪を結わせながら全裸で三味線を弾く女性を描いた「日本女性の化粧」図を描いたイラストである。後にこの主題は、ガブリエル・ヴェールがシネマトグラフで撮った『身繕いする日本の女』(1898-1899年)へと形をかえ、1900年のパリ万博では、日本髪を結う娘の光景が見世物として扱われた。つまり、同一のモチーフが、西洋人の描いた写実的なイラストから、西洋人が日本で撮影した映画へとかわり、ついには日本人自らが西洋へ出品した生身の日本女性へと至ったのである。
同じ万博では、川上音二郎と貞奴が、「盛遠」にハラキリのシーンをとりいれ、欧米で馴染みの日光陽明門の書割の前で涛ケ成寺狽舞うなど、西洋での興行価値をあげるべく、自文化にデフォルメを施している。これと同じことは、日本的景観の彩色写真である横浜写真にもいえ、土産として大量に売られたそれらの写真像は、後に鉄道省の観光客誘致政策の映画へと姿を変えていった。



輸出向けという発想で、西洋にはない日本的なるイメージをデフォルメして映像化し、ロケーション撮影にこだわった『武士道』は、自分達の文化とは違う異文化を求めた欧米側の欲求と、その欧米の希望に応える異文化としての自文化を売り込む日本側とが、互いに補強しあった日本文化像といえるだろう。しかしながらこの自画像は、欧米文化をネガとする、その陰陽反転したポジでもあり、その結果『武士道』に表象された日本像は、万博と同様に、欧米の特徴とされる、近代的、文明的、先進的、合理的等の欠落が前提とされた、異文化像となったのである。それは、国内向けの「日本」像が、東京に対する陰陽反転の地方像で形成されていたことと対をなすものであり、このような傾向は、戦後の大映が国際映画祭で数々の受賞を果たした溝口健二の『雨月物語』(1953年)や『山椒大夫』(1954年)、『近松物語』(1954年)などにも共通していえることである。
 このような映画前史のイメージから連なる、映画における国内/国外にむけたポジ/ネガ像の「日本」像とイメージ研究の具体的な関係性について、今後のプロジェクトの研究課題としていきたい。

@ 常石史子「武士道 新たに発見・修復された鉄砲伝来をめぐる日独合作時代劇」(『第四回京都映画祭公式カタログ』2004年)参照。
A 「忠孝と武士道を海外に紹介する/大映画の作製」『大阪朝日新聞 京都附録』(1924年11月22日付)。
B 「武士道――愈々公開――」『京都日日新聞』(1926年5月31日付)。
C 「武士道」『キネマ旬報』1925年1月21日号。
D 3人のドイツ人の表記は不明だが、アードマン、アムガードフヲッス、アルデンボーグのうち、アルデンボーグは衣笠貞之助の
   『狂った一頁』にも出演しており、衣笠貞之助の自伝『わが映画の青春:日本映画史の一側面』(中公新書、1977年)にも特記されている。

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