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NEWS LETTER
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【ISSUE.001】
京都アート・エンタテインメント創成研究の採択にあたって
GISによる京都バーチャル時・空間の構築
 
京焼は近世日本の陶磁器をリードした重要な焼き物である。近世の京都では多 くの美術工芸品が栄えたが、それらは京都が三都のひとつとして政治的・文化的 役割を果たすための小道具でもあった。京焼はそうした工芸品のなかでも、美術 品だけでなく、考古資料からも検討できる、きわめて重要な資料である。
 近世考古学の発展のなかで、京都における近世遺跡の調査は極めて遅れており 、京焼は近世考古学・陶磁器のなかでも「ブラック・ホール」のような存在であ った。京焼窯跡は遺跡地図にも登録されず、行政的な対策すらとられてこなかっ た。そのため、法蔵寺鳴滝乾山窯址発掘調査団を組織して、2000年より発掘調査を開始した。これは、京焼の窯跡にとって、はじめての正式な発掘調査である。 現地調査は木立が担当し、000年・2001年・2002年のそれぞれの夏、3次に渡っ て行った。2002年からがCOEに関わる調査である。
 
1)石碑地区(1区) の調査
窯跡が想定される現地は近年の墓地造成によって大きく地形改変がなされ、調査可能な地点が限られた。しかし、戦前に川喜多半泥子が窯の存在を想定した地 点の一部は、「尾形乾山陶窯跡地」の石碑が建立されていたため、発掘すること ができた。この地点からは多くの窯壁片・窯道具片・製品・未成品などが出土し たが、近代になって移動された土層であることが判明した。窯や物原はこの地点 よりも高い地点にあり、のちに周辺の造成時に土を移動したのだと考えられる。 戦前にはこの地点で多くの遺物が採集されていたから、この造成は昭和初期の窯 跡発見段階か、あるいはそれ以前であったと想定される。
 ところで、この地点の下層から石段遺構が検出された。螺旋状に登ってゆく、 蹴上げの低い階段であった。石段の石は正確に円弧状に配置され、青や黄色の石を絶妙に配置した優美なものであり、通常の石段とは様を異にする。石のない 部分や平坦な部分には細かな砂利が敷きつめられており、砂利敷きの通路と螺旋 状の石段が組み合わせられていたと推定される。 この石段を埋めた土層からは17世紀後半の土師器が数点、17世紀後半から18世 紀初頭の白磁( 有田の濁手)1点が出土している。また、この埋土のなかから窯跡関連の遺物は窯壁が若干含まれる程度であった。わずかな出土遺物からの推定だ が、この石段は17世紀後半のうちに埋められ、のちに窯壁が若干混入した程度で あったと想定される。尾形深省(乾山)は1694年に二条家の山荘を譲り受けてい るが、ちょうど、その段階と一致する。この石段遺構はその段階に埋められた二条家の山荘に係わる遺構と推定できる。なお、7 世紀代の須恵器や古代・中世の 陶器片もわずかではあるが出土した。
2)墓地地区(5区) の調査
1 区の調査によって窯や物原はそれより高い部分にあったと想定された。しかし、高い部分は墓地が造成されており、十分な調査を行うことができなかった。その ため、通路部分に限った試掘調査とハンド・オーガーによるボーリング調査 を行った。その結果、現状では大きな尾根筋に見える現地には、小さな谷状地形が2 本以上埋没していることが明らかとなった。また、ごくわずかだが、窯関連の遺物が出土することから、この周辺かさらに高い部分に窯が立地していた可能性が 高まった。試掘トレンチでは谷を埋めた地形の上に周辺で産出することのない白色粘土を敷きつめた整地面を検出した。なんらかの作業面であった可能性がある が、通路部分のみの調査であるため、その時期や正確については十分に確認できなかった。
3)鳴滝乾山窯跡の立地
この地は文献史料から次のような変遷をたどったことがわかる。
1694年 二条家山屋敷を尾形深省に譲る。
1699年 尾形深省が窯跡を操業。
1712年 尾形深省が洛中に移転するとともに桑原空洞の山屋敷となる。
1731年 法蔵寺が建立される。
 京焼の多くは寺社や公家・禁裏と結びつきながら生産を行っていたことがすでに明らかにされているが、鳴滝乾山窯においても、それは同じであった。しか し、従来は「二条家の山荘」が如何なるものであるかという検討は、史料不足のためになされてこなかった。「庭」というものが果たす役割やその具体的性格に ついても今後検討してゆく必要があるが、重要な点は、乾山窯が二条家の優美な山荘のなかに作られ、視覚的にもそれが示しえたということである。すでに文献 史料では明らかになっていたことだが、それを改めて実感させ、当時においても単なる政治的な繋がりのみならず、視覚的にも二条家との関連を示しうるような 場所で生産を行っていたことが明確になった。御菩薩池焼、つづいて乾山焼が洛中に拠点を移すのは、そうした「意味のある場所」の意義が薄れたか、「粟田 口」などの他の「意味のある場所」がそれらに打ち勝ったためであろう。ただし、それでも乾山二代目が聖護院門前で生産を継続するなど、政治的な繋がりが意 味を無くすわけではない。
 

鳴滝乾山窯跡からは、製品の底部に錆絵で施した「乾山」銘が、「輪ドチ」に反転したものが出土している。どのような場合にこうしたことがおきるのか、実際 に試してみた。その結果、「輪ドチ」がやや湿った状態であるか、若干濡らしてから使用すると、使い勝手がよく、銘文もよく反転することを確認した。
 また、鳴滝乾山窯跡から、上絵窯の一種である「金炭窯」が出土している。明治末から昭和初期頃まではこの窯が使用されていたが、現在ではその記憶をもっ ている方がいらっしゃらない。そのため、実際に製作して焼成実験を行ったところ、十分に上絵窯として使用できることを確認した。
 京焼の発掘調査はまだはじまったばかりであり、不明確な部分が多い。今後とも調査を継続するなかで、すこしづつその実態に迫ってゆきたい。
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