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出品目録

光悦謡本

近世初期の慶長年間(一五九六―一六一五)に、当時の桃山文化の象徴とも言える、豪華な観世流の謡本が古活字本(木の活字を用いた版本)として出版された。贅沢な紙を用い、表紙や料紙に俵屋宗達の図案という説のある雲母文様が刷り込んであるもので、本文が光悦流書体なので「光悦謡本」と通称している。
 「光悦謡本」は、装幀や活字の違いから数種類に細分できるが、ここでは、その中でも最も贅沢な本と言える「特製本」と「色替り本」を展示した。
 「光悦謡本」の謡の本文は、室町時代の謡本から江戸時代の主流となる「元和卯月本」(二に展示)の系統への移行期を示しており、近世初期の観世流の謡を知るのに有益である。

観世大夫黒雪と謡本

 観世身愛(黒雪斎暮閑。永禄九〔一五六六〕―寛永六〔一六二九〕)は、室町末期から江戸初期にかけての観世大夫(座のリーダー)である。
  黒雪は、室町末期から後の将軍徳川家康に後援され、金春座びいきの豊臣秀吉にも相当の待遇を受けていたが、ある時秀吉の怒りを買い、家康のもとを自ら出奔するなど、為政者との関係で、変動の多い人生を過ごした。
  しかし黒雪は、謡本に関しては、歴史上大きな名を残す存在である。黒雪は、それまでの観世流の謡の詞章を少しずつ改訂していき、新しい詞章を書き留め、晩 年、弟子の石田少左衛門友雪と協力して、自身が書き留めたそれらの謡本を版本として刊行した。「元和卯月本」と通称される謡本がそれである。それ以後出版 された夥しい数の観世流謡本は、江戸中期の一時期を除いて、今に至るまで、すべてこの「元和卯月本」の詞章を土台としている。その意味で、黒雪の謡本は、 現在にも受け継がれているのである。
  このコーナーでは、黒雪が筆写した謡本や、「元和卯月本」をはじめ、黒雪ととくに関わりの深い江戸初期の版行謡本を取り上げる。

江戸中期の観世大夫と謡本
十三世滋章と十五世元章

  観世座の九世大夫(座のリーダー)だった黒雪の時代を過ぎると、江戸中期に至るまで、歴代の観世大夫の中で、謡本の刊行に関わる人物は出なかった。その 間、数多くの謡本が出版されたが、それらは、書肆(書店)が、大夫とは無関係に自主的に刊行したものである。当時は、大夫による出版の制限が、実質上行わ れてはいなかったのである。
  久々に謡本の刊行に関わった観世大夫は、十三世滋章(始め重記。織部。寛文六〔一六六六〕―正徳六〔一七一六〕)である。先述の黒雪は始め名宣を忠親とい い、のちに身愛と表記を変えているが、重記を滋章と改めたのは、黒雪の例に慣らったと思われる。滋章は、没する直前に「正徳六年弥生本」を出版した。滋章 は大夫時代、先祖観阿弥(南北朝時代から室町時代にかけて、子の世阿弥と能を大成した能役者)の三百回忌の法要を行った(ただし実際の観阿弥没後三百年と は年代が合わない)こともあってか、観世の家の継承について考える機会が多く、それが謡本の出版に結びついたのかもしれない。
  その気風を受け継ぎ能の大成期の先祖を意識しつつ、それ以前とはまったく異なる謡本を新しく制作し、能の演出も大きく変えたのが、滋章の二代後の十五世大 夫、観世元章(享保七〔一七二二〕―安永三〔一七七四〕)だった。元章の制作した謡本を「明和改正本」と通称する。「明和改正本」では、それまでの観世流 の上演曲でなかったものが多く取り入れられ、国学の影響を大きく受けて詞章が大改訂された。たいへんな意欲作であったが、あまりに大きな詞章の改変が、周 囲には受け入れられず、元章の後、観世流の謡本は、「正徳弥生本」系におおかた戻された。ただし、その新しい内容の一部や、「明和改正本」の節付の注記 は、現在の観世流に生き続けている。

謡本と京都の書肆

出 版が盛んになった江戸時代には、本を版行する数多くの書肆(書店)が生まれた。特に京都は、謡本を扱う書肆が最も多い場所だった。京都が謡の盛んな地で あって、江戸幕府とは別に、「京観世」と呼ばれる独自の観世流の謡を伝えてきたこととも関係しているのであろう。このコーナーでは、そのような京都の書肆 に焦点を当てる。

謡本のサイズと函いろいろ

謡 本は、謡の稽古のためだけのものではない。ものによっては一種の美術品であり、美術品とまでは言えなくても、さまざまに製本された謡本があって、それを手 にすること自体も、一般の人々の謡本の楽しみ方の一つだった。また、それをしまう函もさまざまであり、それらから、出版文化の一面がかいま見られ、謡本を 手にした人々の本への愛着を感じ取ることができる。

謡本から見る舞台

  謡の詞章とその節付が、謡本の基本であるが、元禄年間(一六八八―一七〇四)頃から、実際の能の舞台を想定して、謡を謡う際の心持の注意を加えたり、演出 の注や絵を入れたりする版本が現れる。能楽事典的な本もある。一般の人々はこのような出版物を通して能の舞台を想像することもあったのであろう。また、こ ういう本が出版されたということは、能とはやや独立的に貴人筋ばかりでなく、巷間(街中)に謡文化が広まっていったことを物語っている。

各流謡本

江戸時代を中心に、謡本の中では観世流の節付の本が八割以上を占めるが、他の流派の人々も、機会をとらえては、自流の謡本を刊行した。ここでは、そのさまざまな流派の謡本を、近現代のものまで展示する。

車屋謡本

  室町末期から近世初期にかけて、鳥養流の書家、鳥養宗?(法名道?、?―慶長二〔一六〇二〕)が制作に関わった謡本で、鳥養流書体のものが世に多く遺され ている。巻数や所収曲はいろいろだが、それらを、宗?の屋号が「車屋」であったという伝えから「車屋謡本」と総称する。車屋謡本には、鈔写本(写本)のほ かに、宗?の筆をもとにした整版本も伝わっている。
  写本の車屋謡本には、本文・節付とも宗?筆のものと、本文は別人の筆と推定されるが節付が宗?筆のものとがある。
  宗?の活動時期の中心は、豊臣秀吉・秀次の時代であった。秀吉・秀次は能楽を取り立て、下掛りの金春座を特に後援した。京都の本願寺で、坊官の職を勤めた 下間少進が、盛んに能を舞ったのも、その当時である。宗?は、このような時代に、下間少進を含め、金春座に関わる他の人々とともに活躍した。宗?自身、当 時の金春大夫(座のリーダー)であった金春喜勝に謡を習い、謡の教授もしていた。
  鳥養流は、青蓮院流系の書の流派で、当時大坂を中心に盛んだった。宗?も大坂住であったらしい。

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