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4・謡本と京都の書肆
四―1・2 延宝三年(一六七五)五月 |
味方健氏蔵 | 山本長兵衛は幕末まで続いた書肆で、江戸時代の観世流謡本といえば山長(山本長兵衛の略)の名が第一に挙がるほど数多くの謡本を刊行した。大夫の公認本とは別に、自主的に謡本を刊行した書肆の代表である(ただし江戸末期には大夫公認本〔三―16・17〕を刊行する)。本書は、それまでの観世流の内組本(上演回数の多い曲百番程度を集めた本)から五番綴の曲の組み合わせを変更して、新たに山本長兵衛が開版したとされる謡本。本書の曲の組み合わせが、幕末まで観世流五番綴本内組の主流となった。四2は刊者山本長兵衛による延宝三年の刊記で、数多い山長本の中でも、比較的早い時期のものである。 |
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四―3 元禄三年(一六九〇) |
個人蔵 | 四―1・2の山本長兵衛内組本に対応する外組本(内組百番より上演回数が少ない曲を集めた本)。本書は次の四―4の本が刊行される寛政年間(一七八九―一八〇一)頃まで版を重ねて流布した。特色は、それまでの外組本になかった曲を多く集めている点である。 |
四―4 寛政十一年(一七九九) |
味方健氏蔵 | 四―3の山本長兵衛本の覆刻本。曲によっては詞章や節をかなり改訂している。また、当時は謡の拍子(リズム)が、「近代式」と言われる拍子に大きく変わった時期であるが、本書の拍子の注記は、新しい近代式の拍子を反映したものに変わっている。 |
四ー5 観世流宝暦九年 |
味方健氏蔵 | 横小本(横綴じの小本)で、五十番綴、二冊。貞享年間(一六八四―一六八八)頃から、謡本にも横小本が見られるようになる。奥付の年記は宝暦九年(一七五九)だが、当時の版では山長の住所が、「二条通御幸町西江入町」となっている。展示した本の「二条通麩屋町東入」は、後に山長の同住所の表示が変わってからのもので、幕末に重版されたらしい。この本は、元禄十一年(一六九六)宣風坊刊行本を山本長兵衛が後刷りしたもので、幕末の版と思われる本書は、江戸初期からの長い歴史を持つ山長が刊行した、最後の方の本ということになる。 表紙は水銀を用いて着色した丹表紙。謡本の表紙には珍しい色である。 |
四ー6 観世流明治十二年三月 |
味方健氏蔵 | 明治時代に入って最初に刊行された謡本。天保十一年山本長兵衛刊本(三―16・17)の再版と覆刻が混じる。最終丁の表に、正徳六年弥生本(三―1)と同版という刊記があるが、これは天保十一年の山長本の刊記をそのまま写したもの。刊記には、続けて「宮内省 御用達観世清孝」の校閲を経て上梓した、とある。観世清孝は当時の観世宗家(幕府が解体し「大夫」の呼称が廃され、このように呼ばれる)。檜常介(もと橋本常祐。「檜」は屋号を姓にしたもの)は、幕末に山本から版権を譲り受け、その後檜は代々家元の監修する謡本を刊行し続け、「檜書店」として今にいたる。檜は幕末にも山本との連名の形で三種ほどの謡本を刊行したが、本書は檜だけの名で刊行した、最初の謡本である。 |
四ー7 大正改版観世宗家正本 |
大正十一年〜十二年 檜常之助発行 味方健氏蔵 |
「大正正本」と略称される本の一種である。大正正本は、当時の観世宗家、観世元滋がそれまでの本を改訂して、観世大夫系謡本の伝統である近衛流書体は継承しながら字を読みやすく変え、節付についての詳しい注記を入れ、各曲の最初の丁に曲目解説を新しく付けた本。明治の末年に初版が刊行された「観世流改訂本刊行会本」(七―9。観世宗家監修・檜書店刊行とは異なる本)の新時代の工夫を参照している。観世流の家元公認本の中で、現行謡本の形式に近づいた近代的な本の最初である。 《神歌》(神聖視される特別曲《翁》の謡)、《木曾》《高野物狂》(明治時代に明和改正本をもとに復活された曲)、《大典》(大正天皇の即位を祝した新作)など、昭和十年代までの観世流の上演曲すべて(全二〇九曲)を収める。 奥付には、檜常之助の名のほかに、発行所として「檜大瓜堂」の名を記す。檜大瓜堂は、京都の檜常之助の東京販売所。 |
四ー8 観世流昭和大成版謡本 |
昭和十五年〜十八年初版 檜書店刊 個人蔵 |
観世宗家が公認する、現行の観世流謡本である。二十四世宗家、観世左近を訂正著作者とする。初版は戦時中の刊行のため、不敬問題に配慮して一部の曲を除き詞章を若干変更したが、戦後は旧に復して、現在も版を重ねている。 昭和五年(一九三〇)頃に檜大瓜堂は「檜書店」と改名し、今にいたる。 |
四-10 万治二年(1659)六月刊 |
味方健氏所蔵 | |
四-11 寛文十年(1669)九月刊 |
味方健氏所蔵 | |
四-12 元禄十六年(1703)一月刊 |
味方健氏所蔵 |