出品目録に戻る  4・「謡本と京都の書肆」に戻る  6・「謡本から見る舞台」へ

5・謡本のサイズと函いろいろ

五―1

慶安二年初夏
吉野屋権兵衛刊
観世流謡本

味方健氏蔵 縦長本である。中国の清で多く出版された本のデザインを、中国趣味としてまねたもので、日本でも寛永年間(一六二四―一六四四)頃から刊行される。謡本には珍しい型で、江戸初期の一部の本だけに見られる。この本のほかには寛永卯月本五番綴後刷本(二―17〜19)がこの型の本の例として挙げられる。

五―2

下掛り系小型謡本
刊者刊年不詳

味方健氏蔵 小本と呼ばれる、謡本に最も多い半紙本の半分の大きさの本である。半紙本の料紙に使う半紙を半裁して料紙とする。小本の書型は、洒落本(江戸時代の小説の一ジャンル)を中心に、江戸中期から多く用いられたが、展示した本のような縦型の小本は、謡本には少ない。これを横綴じにした横小本は、謡本にも時々見られる。
 「下掛り系」は、金春座・金剛座・喜多流の系統を指す言葉で、観世流謡本とは、詞章や節付、注記の表記法など、さまざまな点で違っている。

五―3

宝生流
縁山版(増上寺版)謡本

安政六年(一八五九)
五月

了従刊

味方健氏蔵

袖珍本と呼ばれる、小本よりも小さいサイズの携帯用の本。小ぶりの桐函に収められている。
 本書は宝生流(観世流と同じ上掛り系の流派)の謡本で、「縁山」(江戸、芝の増上寺)の僧「了従」の跋文があるため「縁山版」「増上寺版」と呼ばれる。宝生流刊行謡本の最初の本である「寛政版謡本」(七―1・2)の模写を版下にした本。
 奥付などには記されていないが、実は加賀(現在の石川県)の前田家が本書の刊行に関与したらしい。前田家は宝生流を取り立てた大名で、俗に「加賀宝生」と言われるほど、加賀は宝生流の能や謡が盛んな地であった。

五―4

同 函

五―5

観世流綸子
表紙大型謡本

刊年不詳

味方健氏蔵

美濃本と呼ばれる、半紙本よりも大きい、謡本には少ないサイズの本である。表紙に綸子(文様を織り出した、滑らかで光沢のある染め生地の一種)を用いた珍しい謡本。五冊本で、すべて表紙の生地の色が異なる。料紙は薄葉の雁皮紙。江戸末期頃に製作された、オーダーメイドの本であろう。
 大型の本でありながら、本文には正徳六年弥生本(三―1〜3)系の、半紙本用の版を用いており、上側の余白が特に大きい。五番立の分類に従って、似た趣向の曲を同じ冊に集めている。その配列には、本文の版と同様、正徳弥生本系の影響がうかがわれる。表紙の色は、各冊の曲趣にふさわしいものを選んでいるらしい。各冊一四〜二一曲で、全九二曲を収める。

五―6・7

雛本小謡集

刊者刊年不詳


立命館大学
西園寺文庫蔵

袖珍本よりさらに小さい、豆本と呼ばれる小型本の中でも小さめのサイズで、特に雛本と言う。青色表紙に白題簽が付いて、曲名が刷られている。五番綴の謡本にならって各冊が五曲から成る。ミニチュアのようであるが、節付もあり、掌に収まる携帯用謡本として実用できる。西園寺文庫蔵本にはどの冊にも奥付がないが、同系の江戸中期の雛本が知られており、その後刷の江戸末期頃の本ではないかと思われる。
 小謡とは、比較的短い謡い物で、酒宴の座敷などで謡われる。本書には能の一部を取った謡が多いが、五―7の「九月九日」は、室町時代から伝わる「五節句の謡」という季節物の謡の一つで、謡のためだけに作られた曲である。

五―8

金剛流五十番綴
横型謡本

 

明治三十八年(内組)
明治四十四年(外組)

檜常之助刊

味方健氏蔵

枕本と呼ばれる、美濃本の半分の大きさの横型本。
 山岸弥平が明治十年代に刊行した、最初の金剛流刊行謡本(山岸本。五―12・七―6)の売れ行きが悪く版木が入質してしまったのを、関係者が檜常之助の所に持ち込んだため、以後の金剛流謡本は、檜常之助(後に檜書店)が刊行することとなり、現在にいたる。
 本書は、山岸本の本文をもとにした携帯用の木版印刷本で、一冊五〇曲、内組・外組合わせて四冊から成る。ただし、山岸本外組にあった《泰山府君》《竹雪》《現在巴》の三曲を、《藤》《恋松原》《高野物狂》に入れ替えている。

五ー9

元和卯月本
(二ー5〜9)の函
 

檜書店蔵 漆塗りの函。函上部の把手・蓋の留め具・抽斗のつまみなどに金具が用いられている。全体に手の込んだ造りの函である。蓋の中央に篆書で「卯月本」とあるのは、製作当時から記されていたのであろう。その右に、「左近元忠」と墨書されている。室町末期の観世大夫、元忠(宗節)を指すらしいが、元忠の生没年と本書の刊行とは年代的に合わない。誤解に基づいて、後代に書き加えられたようである。
五段の抽斗の前面には貼紙があり、元和卯月本の百番の曲名が、近衛流書体で列記されている。その曲順は、観世流謡本のうち、寛文年間(一六六一―一六七三)以前に刊行された五番綴謡本の曲順と同じなので、この函も、それ以前に製作された可能性がある。
蓋の裏には、「岩井」という墨書がある。旧蔵者の名前であろう。

五ー10

黒雪正本
(二ー20 〜22 )の函

立命館ARC蔵 漆塗りの函で、上部に把手の金具が付いている。左右三段ずつ、六つの抽斗がある。抽斗にはつまみの紐が付いているが、一部は紐が失われ、別の紐が補われている抽斗もある。
 六つの抽斗のうち五つの前面には、黒雪正本の百番の曲名が、近衛流書体でじかに墨書されている。残りの一つの抽斗は予備であろう。
 五種の趣向が異なる曲の冊を、それぞれ別の抽斗に入れるようになっている。右の元和卯月本の函のように、趣向の異なる曲同士を一つの抽斗に集めるようにしたものとは基準が違っている。
 函の製作年代は不詳だが、黒雪正本の制作と同時代であった可能性もなくはない。
 蓋には、「下市利祐」と墨書されている。旧蔵者の名前であろう。
 

五―12

金剛流山岸本
内組

明治十五年(一八八二)
十二月

山岸弥平刊

味方健氏蔵

五―12は、大型半紙本(通常の半紙本より大きく、美濃本より小さい)の例である。黒紫色表紙に九曜の浮出文様がある。
 金剛流のはじめての刊行謡本で、宗家公認本。江戸時代の金剛流刊行謡本はなく、明治時代に入ってから出版された。明治初年頃から、京都の金剛流野村家の野村禎之助など金剛流関係者が謡本刊行を企画し、その没後、禎之助の高弟で大阪の金剛流の柱だった高村信道が本文を校訂し、やはり大阪の能楽界で活躍した平瀬春枝(露香)が出版に関与して刊行されたらしい。刊者の山岸も大阪住である。東京遷都の後だったが、京阪地域で宗家公認本が出版されたのである。
 本書企画に関わった野村禎之助は、幕末に金剛姓を許され金剛直勝と改名した。昭和初期に東京の金剛流宗家が断絶した後は、京都の直勝の家が宗家を引き継いで、現在にいたる

五―13

同 函

出品目録に戻る  4・「謡本と京都の書肆」に戻る  6・「謡本から見る舞台」へ