C7 巨人力士生月鯨太左衛門江戸に登場

年代:天保15年(1844)11月
所蔵:小島貞二コレクション
資料no:kojSP03-053

 西張出前頭に古今随一の巨人生月鯨太左衛門が登場する。『武江年表』弘化元年(天保15年)4月5日の項に続いて「〇肥前平戸産大男生月鯨太左衛門といへる相撲取来る(身の丈七尺五寸、重さ三十六貫、掌一尺八寸、今年十八歳、十八人力と云ふ。筠庭云ふ、大男去冬より玉垣額之助方に来れり。角力に出しが程なく嘉永三年庚戌五月二十五日死去す)」とある。生月鯨太左衛門は九州平戸の生月島の出身。当年18歳で身長227.2㎝、体重168.7㎏もあった。将に生月鯨太左衛門こそが現在までの力士の中で最も巨大な力士であった。母親が懐妊したときに腹の中に鯨が飛び込んだ夢を見たという伝説が語り伝えられている。

 江戸時代の巨人と言えばまず連想されるのが明和7年(1770)に江戸に登場した釈迦ヶ嶽雲右衛門である(B2-1参照)。彼の身長7尺1寸6分は約217㎝である。実際に土俵で相撲を取りそれなりの勝ち星を挙げているので大きくて強い力士であった。その後釈迦ヶ嶽雲右衛門クラスの巨人では文政年間(1818年頃)に肥後熊本から大空武左衛門が現れた。大空は身長7尺5寸(約227㎝)体重35貫500(約133㎏)という体格で牛を跨いで通ったという伝説で牛跨ぎというあだ名で呼ばれた。錦絵にも描かれ江戸っ子の興味を煽ったが、しょせん相撲を取る覚悟も力もなく熊本藩候の遊び道具のようにあちこちに連れまわされ貴顕の目を奪うことに終始して土俵に立つことは無かった。渡邊崋山が等身大の肖像画を描いている(現クリーブランド美術館蔵)。その模写は早稲田大学図書館に所蔵されている。

 次に江戸で話題になったのは龍門好五郎という巨人で文政11年(1828)10月場所の番付に名前が出た。伊予(愛媛県)の出身で錦絵によると7尺4寸5分(約225.7㎝)45貫(約168.7㎏)とある。大坂相撲に登場して土俵入を行ったり相撲を取ったりしたようだ。その評判を聞いて江戸の土俵に立たせようとしたが実際には江戸には来ず大坂で亡くなってしまったらしい。江戸の人々には浮世絵だけの幻の巨人となってしまった。ただ手形が残されており実在の巨人であったことは間違いない。江戸っ子たちが土俵で目の当たりにした次なる巨人が生月鯨太左衛門である。実に釈迦ヶ嶽雲右衛門以来74年ぶりの土俵の上の巨人であった。巨人の例にもれず最初は相撲は取らず土俵入のみ行い、少しずつ慣らしてから余興のように相撲も取るようになった。弘化3年(1846)11月場所、幕尻で5日間だけ相撲を取って幕下力士のみを相手に3勝2敗の成績を挙げている。またそれに先立つ弘化2年大坂で行われた興行で、10日目千秋楽に生月の五人抜きを行った。その姿を描いた錦絵が残っているが名もない下位の力士5人を相手に相撲を取る姿が描かれている。

 生月鯨太左衛門のエピソードとしては、江戸に来て色気づいたか両国広小路の水茶屋の娘に懸想したが桁外れの体格ゆえひじ鉄砲を喰らった。それが悔しいと同じ両国の見世物小屋に出ていた一寸玉之助という小人の女性を女房にしたという話がある。しかし、嘉永4年(1851)わずか24歳で病没した。もう少し長生きをしていれば写真にも写されていたかもしれない。生月はよほど江戸で評判になったようでたくさんの浮世絵が描かれている。

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