C5 め組の喧嘩

年代:文化2年(1805)2月
所蔵:小島貞二コレクション
資料no:kojSP02-091

 文化2年(1805)2月場所7日目の2月16日、東前頭4枚目四ツ車大八、西二段目5枚目藤ノ戸善八、東二段目6枚目九竜山扉平の3力士が場所打ち出し後鳶人足と喧嘩をした、いわゆる「め組の喧嘩」として知られる事件が起きた。画像はその文化2年2月場所の番付である。『武江年表』文化2年の項「〇二月、芝神明宮境内にて勧進角力ありし時、同十六日、八日目興行日、水引といふ角力取鴟の者と喧嘩に及び、四ツ車一人加勢して大勢を相手にして闘争に及ぶ(此の時、鴟のもの共、町内の半鐘を鳴らし、人集めして向ひたれども、四ツ車長き梯子を奪ひて振回しければ、誰ありてよりつく事ならず、只人家の屋上より瓦を擲るのみ)」とある。『武江年表』では「八日目」とあるがその場所の星取表を見ると七日目である。また「水引」という力士になっているが、番付を見る限り「水引」という名は見えない。後の講談が年表に紛れ込んだものと思われる。史実では最初に鳶の者と喧嘩をしたのは九龍山である。

 三田村鳶魚の『相撲の話』によれば、事件のきっかけはささいなことで、め組の鳶辰五郎が友人の長治郎と富士松を連れて相撲場に顔で入ろうとした。当時の興行の慣習で興行側は必ず町内の鳶の頭に挨拶に行き、頭は何がしかのご祝儀を渡す、そのため町内の鳶の者は木戸銭を払わずに顔で入ることができた。辰五郎と長治郎は同じ町内だが富士松は違った。木戸も決まりであるから富士松に木戸銭を払うように言い木戸口で揉めた。そこにたまたま来合わせたのが東二段目6枚目(現在で云えば十両力士)九龍山扉平であった。鳶魚は辰五郎と九龍山が「水茶屋の女を張り合っていた」と書いているが事実かどうか。ともかく九龍山はこの3人の様子を見て乱暴な口をきいて罵倒した。面白くない3人は境内の芝居小屋へ入って大人しくしていたが、そこに運悪く九龍山も入ってきた。3人は調子に乗って九龍山を罵倒し足蹴にした。九龍山は怒って3人を投げ飛ばした。騒ぎを聞きつけた神明宮の鳶の万吉と幕内力士の揚羽が話し合いその場を収めたが、九龍山は兄弟子幕内力士の四ツ車大八に「骨は拾ってやるから死に合ってこい」と焚きつけられ、四ツ車を先頭に部屋の弟子藤ノ戸他を連れてやってくる。め組の連中も人を集めて屋根から瓦を投げつけるなどの大騒ぎとなった。血気にはやった長松という下回りが番屋の火の見に駆け上がり早バン木を打つ、それを聞いた同じ下回りの長吉が近くの火の見でスリ半鐘を打つ、36ヶ町のめ組の連中が火事と思って神明宮へ駆けつけるという収集の付かない大騒ぎとなってしまった。鳶の方では富士松は受けた傷が元で死に、他に大怪我をしたものが2名出た。師匠の関脇柏戸とめ組の頭善太郎が集まって何とか鎮めようとしたが適わず、頭取の雷権太夫が寺社奉行松平右京亮に鳶の方は町奉行根岸肥前守に訴えて出た。相撲興行は寺社奉行、火消しは町奉行の管轄であった。

 この事件が単なる喧嘩で終わらなかったのは、相撲は寺社奉行支配、火消しは町奉行支配、中に勘定奉行が入るという民間の事件ではめったに無い三手掛の事件になったからである。この仕置きは鳶の方に重くなった。というのは喧嘩そのものより火事でもないのに半鐘を鳴らしたことを重く見たからであった。取り調べと裁きは場所が終わってから始まり最終的に決着したのは半年後の9月であった。最初に早バン木を鳴らした長松が吟味中牢死、半鐘を叩いた長吉が追放、喧嘩の張本人辰五郎は敲きの上追放となった。相撲の方は九龍山が江戸払い、応援に出た部屋の弟子たちの責任は上位の四ツ車と藤ノ戸が負ったが結果的には無罪であった。

 相撲取りと火消し人足との喧嘩というので江戸中の話題となり、その後講談や芝居に仕組まれた。有名なのは「神明恵和合取組」、明治になって作られた生世話物の名作で現在でもたびたび上演される。芝居では火消しのいなせな男伊達際立たせ、鳶側に寄って書かれている。もちろん芝居と実録は全く別物である。