B2-06 巨人力士三楯山藤太夫

年代:天保14年(1843)10月
所蔵:小島貞二コレクション
資料no:kojSP03-051

 奥州より巨人力士三楯山藤太夫が江戸に初登場した。『武江年表』によると「[筠補]三月三日、奥州田村郡守山領三城目村三楯山喜作卯二十九歳、身の重さ三十貫目余、手掌押したる形半紙に満つ。千住宿楯山藤蔵方に来り居る。頓て角力取になりたるが、不器用にてとらず。」とある。番付を見ると西方の一段目と二段目の中間に張出前頭として「奥州 三楯山藤太夫」の名前がある。往時は巨人力士は実力の有る無しに関わらず大関に位置して宣伝効果を高めていた。江戸も後期になると東の剣山、西の不知火ともに実力十分の真の大関であったので、如何に巨人であってもいきなり大関からデビューするという悪弊は影を潜めた。

 この天保14年10月場所に三楯山はデビューしたがこの場所は土俵入りのみで相撲は取らなかった。星取表では全休となっている。次の場所天保15年1月場所も同じ張出前頭で全休。天保15年10月場所では二段目張出前頭で7番相撲を取って2勝5敗、巨体を利して力士として相撲を取るようになったのだろう。翌弘化2年3月場所では西二段目10枚目に位置して3勝6敗とフル出場した。次の11月場所は東二段目15枚目に落ちた。巨体を売り物とした三楯山は幕下力士として定着し嘉永2年2月場所の番付には西二段目18枚目に名前がある。しかし、同年4月に行われた吹上御殿上覧相撲には出場せず、11月場所の番付からは名前が消えている。当初巨人として土俵入りのみに出場したが、後に幕下力士として相撲をとり出世することなく江戸を去ったのであろう。

 この三立山(三楯山から改名)にハイライトが当たったのは、弘化3年11月場所の6日目、江戸期を通じて最大の巨人と言われた生月鯨太左衛門と対戦したときである。天保15年(1844)10月場所にデビューした生月鯨太左衛門は土俵入りのみを行い相撲は取らなかったが、唯一本場所の土俵で相撲を取ったのが弘化3年11月場所であった。3勝2敗であったが、その内の1勝が三立山からの勝利であった。生月は西の張出前頭、三立山は東二段目16枚目であった。両巨人の対戦は話題に上り浮世絵に描かれたが残念ながらその画像は公開されていない。

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