B2-01 釈迦ヶ嶽雲右衛門

年号:明和7年(1770)11月
所蔵:小島貞二コレクション
資料no:kojSP01-30

 明和7年(1770)の11月市谷丸内坂長龍寺での興行に大坂から東上した巨人力士釈迦ヶ嶽雲右衛門が初登場した。画像では東の大関で大鳥井改め釈迦ヶ嶽雲右衛門とある。身長7尺3寸5分(約223㎝)という前代未聞の巨人であった。『武江年表』明和7年の項に、「〇十一月、市谷長延寺にて、雲州釈迦ヶ嶽雲右衛門大関と成り、雷電為右衛門、一世一度の相撲興行」とある。番付を見ると長延寺ではなく長龍寺とある。この記事にある雷電は有名な大関雷電とは別人で釈迦ヶ嶽雲右衛門の師匠にあたる人で、東関脇に雷電為五郎と書かれている。『武江年表』の筆者は雷電を混同している。この場所以降弟子の釈迦ヶ嶽雲右衛門が登場する場所には同時に出場したが、安永4年3月場所を前に釈迦ヶ嶽が死去してしまい、同3月場所に1日出場しただけで番付から名前が消えてしまった。

 釈迦ヶ嶽雲右衛門は雲州能義郡大塚村(現安来市)の出身で大柄な両親の元に生まれ、14歳のときには既に195㎝の身長になっていたという。当然のようにその巨体が評判をよび、明和5年(1768)まず大坂で大鳥井の名前で土俵に上がった。その2年後の明和7年(1770)に江戸に下り、名を釈迦ヶ嶽雲右衛門と改め雲州松江藩のお抱え力士となった。安永4年(1775)2月に病死するまで江戸の相撲に4場所登場した。ふつう巨人力士は看板大関として相撲はほとんど取らなかったが、釈迦ヶ嶽は相撲も強く通算成績は23勝3敗1預1分と取組数は多くないが実力大関と言っても過言ではなかった。後の横綱谷風(当時は達ヶ関と名のっていた)とは3回対戦して1勝1敗1分であった。希代の強豪として期待されたが若死してしまった。

 等身大の肖像画が残されておりその身長は225㎝、郷里の過去帳には7尺4寸8分(約226㎝)とある。実弟の真鶴咲右衛門が釈迦ヶ嶽の十三回忌に深川富岡八幡宮境内に建てた等身大の記念碑の高さは7尺5寸(約228㎝)である。いずれにしても当時の日本人の身長からすればけた違いの大きさで江戸の人々の話題をさらい数種類の浮世絵が描かれた。その巨大さをネタにした落語や小噺が残されている。江戸の人々にとって力士と言えば谷風、巨人と言えば釈迦ヶ嶽であった。

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