B2-09 巨人力士白真弓肥太右衛門

年代:嘉永6年(1853)11月
所蔵:小島貞二コレクション
資料no:kojSP03-082

 江戸時代の最後を飾る巨人力士白真弓肥太右衛門が江戸に登場した。『武江年表』嘉永6年11月の項に「〇浦風門人白真弓肥太右衛門といふ角力取出る。二十一歳、身の丈六尺八寸余、目方四十貫五百目、飛騨国木谷村の産といふ」とある。白真弓肥太右衛門は飛騨国大野郡白河郷の出身で当年21歳、身長6尺8寸6分(約207.9㎝)体重40貫500(約152㎏)という巨人であった。この場所は土俵入りのみ行い、相撲は取らず看板力士扱いであったが嘉永7年11月場所より幕内力士として登場した。

 相撲の強さはともかく並外れた怪力であったことは間違いなく、白真弓の名前を歴史に残したのはペリー艦隊来航の時であった。江戸相撲がペリー一行接待のために幕府から要請を受けて相撲を見せたのである。その相撲に先駆けて幕府から艦隊へ米200俵(五斗俵)が贈られたが、それを船に運び込むために力士が活躍した。白真弓は背に4俵背負い胸先に2俵ぶら下げ左右の手に1俵ずつ提げて、計8俵をいっぺんに運びアメリカ人を驚かせたという。

 白真弓は讃岐丸亀藩のお抱え力士となり幕内に定着し燧灘、駒ヶ嶽などと名前を変えながら幕末の土俵を支えた。慶応2年11月場所からは師匠名浦風を名乗り幕内生活は15年に及んだ。晩年はそれほど勝てず終に明治元年11月場所を最後に引退した。そしてその年の11月、35歳で病没した。当初は巨人の看板力士としてデビューしたが本人の心がけと努力のおかげで幕内力士として長く活躍したのは立派であった。その体躯ゆえ人気もあったらしく多くの浮世絵に描かれた。

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