C8 小柳平助殺害事件

年代:文久2年(1862)2月
所蔵:小島貞二コレクション
資料no:kojSP03-111

 新進気鋭の幕内力士が弟弟子たちの恨みを買って惨殺されるという恐ろしい事件があった。小柳殺害事件である。『武江年表』の文久2年の項に「〇四月(日を失す)角力取小柳某口論の遺恨をうけしが夜中同輩の不動山某と殿某と二人、小柳が僑宅に忍び入りてかれを斬害し、即時二人とも官府へ自訴す」とある。画像の番付は文久2年2月となっているが、雨天続きで日延べして初日がでたのが3月20日であった。事件が起きたのはも7日目の打出し後だがやはり日延べしてすでに4月9日となっていた。『武江年表』の記述は間違いではない。画像は事件のあった文久2年(1862)2月場所の番付である。

 その7日目、西前頭3枚目若手人気力士小柳平助は同郷(肥後)の兄弟子大関不知火がどうしても勝てない陣幕久五郎に打棄りで勝った。小柳平助は肥後国熊本の出身で最初大坂相撲で鬼鹿毛という名で取ったが、嘉永7年(1854)江戸に下り阿武松の門に入り鬼鹿毛から雲生嶽と改名、万延元年(1860)10月場所に新入幕して小柳平吉となった。熊本藩の抱え力士で場所中は熊本藩の抱え力士は同じ宿舎だった。小柳は剛毅な性格で日頃から傲慢で若い者たちも苦労していたが、この日は強敵に勝って大酒を喰らいますます思いあがって自分の若い者のみならず、兄弟子不知火の若い者にまで怒鳴り散らすありさまだった。恨みに思った不知火の弟子幕下の殿リ峰五郎と小柳の弟子不動山岩吉は示し合わせて小柳が酔って寝ているところをわき差しを以て襲った。隣部屋の不知火が気付いて一喝したが、逃げ出し際に殿リが小柳の左脇腹をえぐった。不知火が殿リを追っている間に不動山がとどめを刺した。深手を負った小柳は翌日落命した。殿リが小柳に恨みを抱いていたのは女性がからんでいたという説もあるが真相は不明である。

 この猟奇的な事件は翌日には江戸中の話題となった。場所はいったん中止となり8日目を開けたのは4月15日であった。不知火は事件の責任を感じて出場せず、死亡した小柳は星取表では休場となった。盛り上がっていた場所もこのような大事件があって人気も萎んで9日目(4月16日)で打ち止めとなってしまった。殿リは自首して小伝馬町の牢で吟味中に牢死した。不動山は郷里の大坂に帰り梅田の光運寺に潜んだが長居も出来ず、和尚に15両の金を恵んでもらい5両を妻子の為に残し北海道へ逃げ延びたという。

 この事件は後に講談話に仕立てられ明治期に人気を博した。国会図書館デジタルコレクションでは講談本『初相撲意恨大盞 : 小柳実伝』(山本善之助編 明治19年)、『近世力士小柳平助伝』(伊東陵潮 講演[他]明治30年)といった本を見ることができる。