C3 怪童力士大童山文五郎登場

年代:寛政7年(1795)3月
所蔵:小島貞二コレクション
資料no:kojSP02-064

 寛政6年(1794)11月場所、写楽の浮世絵で有名な怪童力士大童山が張出前頭で登場した。『武江年表』寛政六年の項に「出羽国より大童山文五郎出づ、十一歳。肥満にして二十二貫あり。角力をとりしが年長じて弱くなれり。筠云ふ、四月頃のことなり」とある。小島貞二コレクションにはこの場所の番付が無く、画像は翌場所の寛政7年(1795)3月場所のものを掲げる。大童山文五郎は怪童力士の始まりで、その愛くるしい姿は江戸中の話題をさらった。画像の番付には「当卯の八才に罷成候土俵入斗掛御目申候」と書かれている。『武江年表』の「十一歳」というのは誤記である。写楽の描いた「碁盤を持ち上げる大童山」には「卯ノ八才 高サ三尺九寸九分 当年相増目方二拾壹貫五百目余 はら三尺九寸まはり」とある。8歳(満で7歳)で身長120.9㎝ 体重80.6㎏ 腹周り118㎝である。現在でもかなりの肥満児であるが当時の生育環境を考えると驚異的な体格の幼児であった。出身は出羽国村山郡長瀞村、現在の山形県東根市である。出生時から並外れて大きく寛政元年に地元の名主から代官に届があったという。

 怪童の一人土俵入りは人気を呼び名だたる浮世絵師が大童山の姿を絵に描いた。特に写楽の描いた一人土俵入りの絵は有名である。大童山が登場した11月場所の翌年寛政7年の1月に大横綱谷風梶之助がインフルエンザで急逝する。写楽の描いたこの土俵入りの三枚続きに描かれる谷風は最晩年の姿ということになり貴重である。大童山はその後も一人土俵入を披露し続け登場した最後の番付は寛政10年(1798)3月場所である。番付には「当午十一才土俵入斗仕候」とある。足掛け4年も土俵入だけやっていたのでさすがに飽きられたのだろうと推察される。

 大童山が番付から消えて7年後の文化元年(1804)10月場所の番付に再び大童山の名前が出た。今度は土俵入り専門の怪童ではなく、幕内力士として再デビューしたのであった。この場所は名前だけで出場せず翌文化2年3月場所に土俵で相撲を取った。成績は8勝負けなしの好成績であった。しかし対戦相手は十両力士が1人で後は幕下中下位の力士ばかり。同格の幕内力士との対戦は1番も無く全勝とは言っても仕組まれた成績の感が強い。この場所はC4で紹介する「め組の喧嘩」のあった場所でせっかくの大童山再登場の話題も消し飛んでしまったことだろう。その後は文化9年(1812)4月場所まで二段目の張出に名前が載るが、それを最後に引退した。25歳であった。小島貞二氏の『相撲人物史』によると、相撲を止めたあとは下谷広徳寺前で「七年もぐさ」というものを販売していたという。力士時代の人気もあり好評を博して商売も繁昌したらしい。文政5年(1823)12月に35歳で亡くなった。怪童力士はその後も出るが大童山ほど話題になった怪童はついに現れなかった。

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