C9 陣幕と鬼面山の遺恨相撲

年代:慶応3年(1867)3月
所蔵:小島貞二コレクション
資料no:kojSP03-129

 江戸時代も末期になり世情騒然としていた頃、その最後を飾る最も江戸時代しかも幕末らしい事件があった。画像は慶応3年3月場所の番付である。この事件は『武江年表』には記載が無い。どうやら『武江年表』の編者斎藤月岑はそれほどの相撲好きでも無かったようだ。幕末の動乱は大名の抱え力士にもそれなりに影響があった。西方大関の陣幕久五郎は出雲の出身、安政5年(1858)の新入幕である。陣幕は「負けずや」といわれた強豪力士で慶応3年の正月に京都五条家から横綱免許を授与された。陣幕はまた時流を読む眼力も備えていたようで抱え主を最初は阿波藩、次に松江藩、そしてこの時は薩摩藩に変えていた。当時力士が抱え主を自分から変えることは滅多に無く、最初に抱えてくれた藩に忠義を尽くすことが当たり前であった。一方、この場所東の張出鬼面山は美濃国の出身で安政4年(1857)の新入幕である。阿波藩のお抱え力士で当初陣幕とは同僚でありライバルでもあった。陣幕久五郎は12代横綱であり後に鬼面山谷五郎は13代横綱に昇進する。

 陣幕は負けること少なく好成績を続けていたが上がつかえていて思うように番付は上がらなかった。文久2年(1862)11月場所で5勝2分で翌文久3年7月場所では張出関脇に昇進し松江藩に鞍替えした。松江藩に鞍替えしたから関脇に上がったという可能性もある。元治元年(1864)4月場所の番付には何故か陣幕の名前が無く、同年10月の番付には張出関脇に名前があるが出雲から薩州に変っていた。ところが番付に名前はあるものの数場所出場しなかった。実は幕末の動乱の中薩摩藩の為に奔走していたという。陣幕が土俵に帰ってきたのは慶応元年(1865)11月場所である。このときは鬼面山は東方大関、陣幕は東関脇であった。慶応2年11月、薩摩藩お抱えの陣幕は西に移って大関に昇進した。出場することは少ないが出れば必ず全勝という強さで「負けずや」の異名を取った。陣幕と鬼面山は同じ阿波藩抱え時代からライバルとして競い合ってきたが、陣幕は抱え主を次々と変え、今は最も勢いのある薩摩藩の抱えとなった。一方鬼面山は阿波藩一筋であった。東西に分かれたが感情的な部分を配慮したのか陣幕と鬼面山という好取組は組まれることはなかった。しかし実力者である両者の対戦を望む声は大きかった。

 ついに好角家待望の取組が慶応3年4月場所7日目に組まれた。薩摩藩抱えの西大関陣幕と阿波藩抱えの東張出鬼面山との対戦があった。陣幕が時流に乗って主家を変えたことを阿波藩の人々は快く思っていなかったこともあり、この日の土俵の周りは薩州の家中と阿州の家中がおっとり刀で控えるという前代未聞の取組となった。両者死力を尽くした一戦は結局水入り、引分けとなった。陣幕と鬼面山の意地、阿波藩と薩摩藩との対抗意識が絡み合った緊張感あふれる取組で江戸時代の掉尾を飾るに相応しい取組であるとともに江戸の残照を強く感じさせる風景であった。

 陣幕久五郎は後に自らの横綱免許を権威づけるために歴代横綱というものを考えだし、深川八幡宮境内に横綱碑を建碑した。これが現在の横綱の代数の根拠となっている。初代明石、2代綾川、3代丸山という架空の横綱を考え出したのも陣幕のアイデアである。その歴代横綱一覧は自伝『陣幕久五郎通高事跡』(野口勝一編 明治28年)に掲載されている。