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年代:文政2年(1819)3月
所蔵:小島貞二コレクション
資料no:kojSP02-123画像は文政2年(1819)3月場所の番付である。画像では小さくてわかりにくいが東二段目12枚目に「堺 八十島富五郎」とある。この八十島富五郎は不思議な力士である。『武江年表』の文化年間記事に「角力取八十島富五郎、不白の門に入り茶事をよくす(根岸に住す)」とある。不白というのはその当時著名な茶人川上不白である『武江年表』の文化4年(1807)の10月の項に「〇十月四日、茶人川上不白卒す(九十三歳。号孤峯又円頓斎。始め不羨と云ふ。千の如心斎の門人。中古千家茶道の開基なり。谷中安立寺に葬す。(後略)」とある。江戸千家の開祖であり大名・武家・町人など多くの門人がいた。八十島富五郎もその一人であった。
八十島富五郎は摂津国住吉の生まれで17歳の時力士を志し最初大坂相撲へ行き、後に江戸に下り寛政8年10月場所、37歳で東前頭4枚目に登場した。文政2年(1819)3月場所、60歳になるまで現役を続けた。『武江年表』にその名が出ているほどなので当時不白の弟子であったことは一般に知られていたと見え、春英が描いた裸で茶をたてる「東西庵 八十島」と書かれた浮世絵が残っている。また『日本相撲史』上巻には八十島の書いた扇面のことが書かれている。以下に引用すると「ある人のもとへ行てあやまちて茶わんのはしをかきし時 たてる茶は四十八手の外なれば ついにちやわんのはじをかくらん 東西庵八十島(茶わんの素画)」
八十島は身長も体重も伝わっておらず幕内にはわずか5場所しかいなかったため目立った活躍もしていないが、雷電や小野川とも対戦したことがあった(もちろん負けた)。その後二段目に落ちてからもよくその地位を保ち60歳まで現役を務めた。本来であれば歴史に名を残すような力士ではないが、茶人力士としての個性は古今随一であり『武江年表』にその名を残した。
C6 茶人力士八十島富五郎60歳で引退す