B2-10 怪童力士舞鶴駒吉と子供相撲

年代:安政6年(1859)11月
所蔵:小島貞二コレクション
資料no:kojSP03-103

 江戸期最後の怪童力士舞鶴駒吉登場が登場した。『武江年表』では安政6年の項に「〇冬角力、回向院境内にて興行の時、簑島某門人舞鶴駒吉といふ小児土俵入りをなす。当年八歳、重さ二十五貫目。駿河の産といふ」とある。画像は安政6年11月場所の番付で、西方の張出に「駿州 舞鶴駒吉 当年八才土俵入仕候」とある。もちろん相撲は取らず怪童力士として土俵入を行っただけである。舞鶴駒吉は文久元年(1861)10月場所まで5場所連続で名前が出ている。それ以降は番付から名前が無くその役割を全うして帰郷したと思われる。幕末の怪童力士は舞鶴を最後に登場しない。寛政期の大童山から始まった怪童力士の一人土俵入は舞鶴を最後に終わった。

 怪童力士が長じて本職の力士となった例は、前述の大童山が後に幕内に数場所登場したこと、嘉永年間に登場した鬼若がその後序二段から再出発して幕内まで昇進したことがあるくらいで非常に稀である。ほとんどは数場所土俵入のみを行って番付から消えていった。これまで見てきたように怪童力士が『武江年表』にしばしば登場するということは、巨人と怪童は相撲興行には無くてはならないスパイスで、それだけ江戸の人々の興味を惹き話題となったことがわかる。

 『武江年表』には本職の相撲興行とは別に子供相撲記事があり興味深い。文久3年夏頃の項に「〇此の頃、谷中本行寺境内に幼児集りて相撲の技を催しけるが、次第に長じ、後に何方となく(素人の子供なり)輻輳して、互に勝負を争ひしかば、其父母もこれを泥み、美麗なる褌襠(まわし)を拵へ、土俵も築かしめたり。下谷常在寺、本郷真光寺その外所々の寺院壘地等にて催しける。秋にいたりて猶盛なり(但し、木戸銭桟敷代等は更に受くる事なし)。」とある。三田村鳶魚の『相撲の話』には「家斉将軍の子供相撲上覧」という一文がある。これを読むと子供相撲の興隆は幕末に始まったことでもなく、裕福な相撲好きの町人が近隣の子供たちを集めて本場所の真似事をさせて楽しんでいたようだ。化粧廻を付けて土俵入りもやれば幟まで立てるという本式のものだった。享和2年(1802)家斉30歳のときに江戸中の子供相撲の優れたものを集めて吹上の苑中で相撲を取らせ上覧したという。その流れが幕末文久まで続いたということだろう。子供相を描いた浮世絵も多く残されている。なお、リンクされている画像は記事とは直接は関係ない当時の子供絵の類である。

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